2016年11月17日木曜日

もううるさいなぁ、しゃーないなあ の結果

勤務先の学校の更衣室で。

小1の学年主任の先生が話しかけてこられた。

「タカマミー先生、1年生もだんだん大変になってきてるんですよ。どうもタカマミー先生の入っておられる3年と1年やね、この学校は。」

この先生、おそらく私よりも十歳くらいは年配の女性の先生である。

小学校をいくつか見てきたが、現場で担任を持っておられる先生って40歳くらいまでの方がほとんどなので、年配の担任の先生って割合目立つ。

ベテランの風格があり、安定感があって温かみがあり、それでいて腰の低い方なので、

母親目線で見ると、こんな先生に一年生で担任を持っていただいたら嬉しいなぁと思えるような先生である。

”校舎が違うからわかりづらいですけど、どんな感じなんですか?”

と問うた。

「クラスで3~4人、走り回る、外に飛び出す、指導しても指導が入らない、言葉が届いてる感じがないのよ。何なんやろね、ああいう子供たちって、理解が難しいわ。」

とおっしゃった。

・・・・・

私ね、障害児育てて、そのあと小学校に来させていただいて、やっぱりなって思うことがあるんですよ。

幼いころから、子供が主張したことに親がどう対応してきたかってこと、ポイントじゃないかと。

「やってもいいよ。」

ということと、

「それはダメです。」

っていうこと、どちらもあると思うんです。

「それはダメです。」って親が言ったら、たいてい子供がぐずるじゃないですか。

それに対して親が、

↓↓↓

「うーん、じゃあ、いいよ。」

「もううるさいなぁ、しゃーないなあ」

としぶしぶ親の言葉を覆して、主張を叶えてあげる回数が結構多いんじゃないかと思うんですよ。

それがね、元々土台にしんどい部分を持っている子(少しやりづらい子)って、

そのぐずり方が半端じゃないから、親が根負けしちゃったりとかするわけですよ。

子供は、ぐずったらなんとかなるし、大人の言うことは覆せる、そんな大したことじゃないって思うわけですよ。

それがね、小さいころから毎日毎日積もり積もったら、

土台のしんどい子ほど、そうやって親が対応してきた割合が高い(やりづらいから)、その結果指導が入らない、言うことを聞かない、になるんじゃないかって思うんですよ。

きっと親の言うこともきかないんでしょう。

障害児だからと思ってやってきたことではあったんですが、こういうことは障害児だけの話ではない。

どんな子供にも言えること。

結局、親が一貫した態度を、毎日面倒くさがらずに繰り返し繰り返しし続けて、子供を最後まで見届けてやることができたか、できていないか、じゃないかと思うんですよ。

・・・・・

「なるほどね~うん、なるほどね~」とうなづいてくださった。

その先生は、私を新人扱いせず、一人の人間として尊重してくださっているようなので、

このような話もすることができたんですが、

若い先生だとここまでの話はできません。

”そうなんですか、大変ですね~”

しかコメントすることができない。

っていうか、そんなことも話しかけてこられないが。

そういうわけで、大人の言葉に重みを感じていない子供は、かなりの人数いる。

そういう子供たちと日々過ごしているのである。

怒ったり暴れたり、拗ねたり愚図ったり、ボイコットしたりわざと何かをしたり、大忙しである。

2016年9月12日月曜日

今日の仕事

今日の仕事

1.ジャージに着替える

2.朝会に行くように促すもののなかなか動かない子供たちの相手

3.その後なぜ動かなかったのかの、管理職から事情聴取を受ける

4.教室に入れない子と廊下で筋トレ(腹筋、スクワットなど)

5.3分休憩時、廊下の端っこで、的あてゲームの仕切り

6.中間休み、校庭15周ランニング(子供たちは21周で私は6周遅れ)

7.板書を促しながら、折り紙で手裏剣作成(私は10個作成)

8.体育をさぼる子供たちと草引き

9.給食当番をさぼる子供たちに配膳させるために食器をせっせと運び参加させる

10.教室掃除の仕切り

11.どうしたら体の脂肪が燃焼できるかを説明

これが今日の活動。

今日は一日中赤ペンを持つ暇も、体育のボールゲームのジャッジをする暇も、

なんにもありませんでした。

・・・・・

でも、今日は校庭を走れたことが、すごく良かったと思っています。

なぜなら、しんどいな、どう接したらいいのかなと悩んでいる子供たちと、少し心が通い合うようになってきた現れでもあるからです。

「ランニング行くで!」と誘ってくれ、
「デブやから遅いやろけど、ちゃんと走れよ!歩くなよ!」

そして、抜かされるたびに「遅いわ!」「デブ!」と暴言を吐かれながらも、

(「うるさいわ!」「わかってるわ!」と返事しております、ご安心を(笑))

20分間我々は、お互いを気にしながら過ごしたのです。

彼らは集団、私は一人、でも最後までお互いを気にして、面白おかしく走りました。

・・・・・

走り終えて、みんな汗だくになりながら「結構キツイな~」と語り、

「先生、遅いわ!しょぼい走りやなー6周も抜かしたわ!」と言いつつも、

「でも先生な、最後まで歩かへんかってん・・・おばはんやのに・・・」とぽろっとこぼしてくれた子。

・・・・・

そもそも、彼らに私とこういう風に一緒に活動してみてもいいかな、という心境の変化を起こせたことの原因に、

私が突然朝からジャージで過ごすようになった、ということがあります。

いつもは普通の服で仕事をしていたのですが、

彼らの興味が筋トレにあると知って、「付き合うわ」と話した直後から、

私は毎日ジャージで過ごすようになりました。

最初は「その服なんやねん?」と言っているだけで、

一緒にやるような雰囲気にもならなかったのですが、

毎日毎日ジャージで来る私に、数日経って「筋トレやるで」と一言発してくれた子。

そしていつも、逃げられても追いつかない、彼らから見ればかなりのおばはんの私が、

一緒にやり始めたランニングで”最後まで走り切ったで、あいつ、やるやん。”

みたいな気持ちになっているかもしれません。

・・・・・

同じことを、同じ目線で、同じようにやってみて、

そこから始まるものもある。

私は息子の子育てを通じて、そう感じました。

言葉で励ますより、応援するより、

ただただ隣で同じことをして汗をかく、

ただただ隣で同じことを夢中になって遊ぶ、

一緒にやってくれなければ、じゃあ教えて!とお願いしてみてもいいし、

今からやるからカウントしててよ、と協力してもらってもいいし、

やっているところを隣でじっと見ているのを良しとしてもいい。

同じ釜の飯を食うじゃないけれど、

子供にとっては嬉しいことなんじゃないかなぁと思うのです。

決して教師らしくはないけれど、

そういうことは、ほかの大多数の先生方にお任せして、

私は寄り添うタイプの大人として存在していても、いいんじゃないかなと思うのです。

しかしこっそりと、ばれないようにです。

・・・・・

タカマミー



2016年8月30日火曜日

北風と太陽

「T先生、なんで今注意しーひんの?」

今日は、この言葉にハッとさせられた日でした。

・・・・・

秋になり小学校が再開しました。

穏やかとは言い難かった現場は、

未だ穏やかにはなっておらず、むしろ様相を変えてまた緊張し始めています。

学校での私の役割といえば、

前任校でも今回でも、最初は発達障害児の個別対応と、

T2の役割としてまんべんなく学習指導をすることが多かったのです。

しかし今は、周りを巻き込む問題行動を起こす(いわゆる非行というか)複数の児童に対し、

なんとか周りに巻き込まないように、そしてできるだけ学習に向かえるように、

支援することにほとんどの時間を費やすようになりました。

・・・・・

周りの子に対し、学習環境の保障をすることと、

彼らの気持ちをおだやかにし、

緩やかに行動を修正していくこと、

それが私の役割だと思っています。

・・・・・

問題行動を起こす彼らは、

教室内でも様々なことをするのですが、

一旦教室から出てしまうと、

廊下でたむろして、ふざけてなかなか動きません。

もちろん一人でも、なかなか戻れなくて放浪の旅に出る児童もいます。

周りの普通の生徒たちも、その様子をいつも見ています。

そして、担任の先生が大声で叱る、という場面をしょっちゅう目にしているわけです。

そんな中、私は叱るときもあるけど、じっと見ているときもある。

それが、Aくんにはとても疑問に思ったようです。

そして、Aくんは素直に私にぶつけてきました。

「T先生、なんで今注意しーひんの?」

Aくんは、正義感が強いところが良いところですが、

それにより、もめ事を引き起こすこともある児童です。

・・・・・

その時は「うん、注意するよ。」と軽く返事したのですが、

その後少し考えて、

”彼の疑問は、周りの生徒たちの素直な気持ちでもあるかもしれないなぁ。
彼と話をしてみようかな”

そう思いました。

・・・・・

「なあなあ、Aくん、さっきの話やけどな、聞いてくれる?」

「先生な、彼らをすぐ叱るときと、叱らずに見てるときがあるって思ったんやろ?」

Aくん「うん。そう思った。さっき、悪いことしてるのに、なんで怒らへんのかなって。」

「先生な、周りのみんなに迷惑かけてるときはどうしてる?」

Aくん「怒ってる」

「うん、そやねん。周りの子に迷惑かけるようなことは、すぐ止めさせてるねん。」

「でもな、今日のさっきの場面な、先生怒ったとしたら、どうなってたと思う?」

Aくん「うーんと、すぐには言うこときかへんかったような気がする。」

「そうやねん。普通に怒っただけでは、動きそうにもなかったやろ?」

「でもさ、大声で怒鳴って、びっくりさせて、無理やり動かすこともできたかもしれん。」

「でも、毎回そんなことして教室に入らせたとしても、また同じことの繰り返しやろ?」

Aくん「うん、そう思う。」

「先生な、彼らにしぶしぶでも納得して『しゃーないな』と思ってでもいいから、自分の足で教室に向かって欲しいねん。」

「そのためにはな、声をかけるタイミングや、話しかける言葉かけが、すごく大切やと思ってるねん。先生は、そのタイミングをいつもじっと見て考えながら彼らと接してる。」

Aくん「そうなんか。」

「だからな、先生は彼らをしっかり見てる。決して放ってるわけではないねん。それはな、他のみんなに対しても同じ気持ちやねん。だから先生に任せてほしいねん。」


Aくん「わかった。」

・・・・・

子供たちにとって、教師は悪いことをしたら叱るもの、と思っているはず。

ただじっと見ていることの意味がわかる子供なんて、そんなに多くはないんだろう。

時々、談笑しているときもあるくらいだから、余計に不可解かもしれない。

でも、長い目で見てた時、問題行動を起こす彼らにとって

自分の足で『しゃーないな、戻ろうか』と歩き出すことが大切だと思っている。

私はいわゆる非行児童のことに関しては素人ではあるが、

息子を育ててきた過程で実感してきた、

『気持ちがないのにただ言われたとおりに動くことを求める』

ということを続けても、定着しないことを知っている。

「気持ちがなくてもやらなければならない」ことももちろんあるが、

自分で納得して見通しをもって動くことって、とっても気持ちがいいし、

人に言われてやったんじゃなく、自分で決めたんだしな、と思えるはず。

そういう経験を地道に増やしていくことを、私は今回やっていきたいと思っている。

だって、担任に聞いたって、管理職に聞いたって、誰もはっきりした答えを持っていないんだから。

それなら、周りの先生方が納得する範囲内で、彼らと対話と駆け引きを続けていきたいと思う。

・・・・・

北風と太陽であれば、私は児童にとって太陽の役割を担うべきだと、

なんとなく誰かが言っているような気がするから。

発達障害の子供たちにとっても、太陽であったと自負しているから。

実際は誰も言っていないし、誰の意見も聞いていないけど、

もう少しこうやって毎日を戦ってみたい。

・・・・・

Aくんとのやりとりから数時間経って、

1対1の揉め事があった。

一人(B)は暴言、一人(C)はつかみかかろうとする、という。

そのいざこざがあって、また授業が再開したあと、

揉めている2人の間で視線の行き来が一度だけあった。

それを見て、” あ、次の5分休憩の合図とともに、BがCに殴り掛かるだろうな。」

15分くらいして出た担任の休憩の合図とともに、しれ~っと2人の間に入る私。

そして、BがCをとらえた瞬間、私により確保~!である。

その後、Aくんと目が合ったような気がした。

気のせいかな?

何か感じてくれたかな?

・・・・・

タカマミー







2016年8月26日金曜日

子どもの指導をめぐって~指導者と親との間で~

人の親になるということは、子供に何かあれば、自ら責任をもって対処しなければならない立場になるということでもあります。

子供が幼稚園に通うようになったり小学校に通うようになったりすれば、担任の先生と、

習い事に行くようになったら、習い事の指導者と、

連絡や相談をすることがありますよね。

・・・・・

私のような障害児の親となると、

専門医にかかれば専門医と、

療育に行けば療育の指導者と、

福祉サービスを利用すれば福祉サービスの事業所やその担当者と、

さらに園や学校では、校長先生はじめ職員室の前方に座っている先生方であったり、

担任以外にも交流級の担任であったり、養護教諭の先生であったり、加配の先生であったり、

それはもう、かなりの量の指導者・担当者・責任者と連携を取る必要があります。

息子の場合、福祉サービスだけでもかなりの数の事業所と契約していますし、

一対一で外出支援をしていただく担当者だけでも現在4名ほどいてくださいます。

それぞれの場所の特徴や、その方のキャラクターによって、

お願いしたり相談したりする内容も変わってくるわけです。


スケジュール管理やそれぞれとの契約も割と時間を取られるのですが、

それよりも一番重視していかないといけないのは、

息子がその場所でうまくいっているのかを把握し、

軌道修正する必要があると判断した場合は、自ら行動し、修正していただけるように働きかける必要があるということです。

そのためには、様子を見て、話を聞いて、息子の様子を観察することがとても重要です。

(ただ付き添いと言っても、スマホを見てぼーっとしているわけにはいかないのです!)

もし、うまくいっていれば、相手をしっかり強化し、関係が良好であることを感謝して気持ちよく指導にあたっていただきたいですし、

うまくいっていなければ、伝えるべきことはしっかりと伝えねばなりません。

・・・・・

先日、ある習い事で、これはもう間に入らねばと思う出来事がありました。

実は、徐々に徐々に、指導者と息子との信頼関係が崩れていっているのは感じていました。

今までの指導者たちも、息子の理解力やメンタルの弱さ、気分のアップダウン、にはかなり苦労されていましたし、工夫していただいていました。

しかし、指導者たちが、なによりも母親との連携を大切にされ、うまくいかなかったことに対する母親の意見を聞いてくださり、それを活かそうと努力してくださっていました。

ここでは長年、知的障害児のクラスに所属しているので、障害児の受け入れには経験があります。

そして、指導者と親とで協力してやってきましょう、技術の習得だけを目的にするのではなく、コミュニケーションや社会性をはぐくんだり、ルールを理解したり、集団活動での学びも意識して、という理念のもとに指導していただいているクラスです。

だからこそ密にやっていけるのが、このクラスの魅力でもあります。

しかし、現指導者とはなかなかそのような密な関係にはなりづらく、

話をしても表面上だけであって、次のクラスには活かされていない、そんなことが続きました。

そして、息子は”どうして僕の気持ちをわかってくれないの!”と指導者のほっぺをつねってしまいます。

それに対し指導者は冷静になることができず、逆切れしてしまう始末。

それが毎週毎週続くわけです。

任せておくにも限界があるなと、とうとう異議を唱えました。

・・・・・

そのクラスの大御所責任者の方は、その実情を知らずにおられ、

話を真摯に聞いてくださり、状況を見て大変納得し、「お母さんと同感です、対処します」と言ってくださいました。

また、既に退職されているベテラン指導者と私との間には、お友達関係という接点があり、
たまたまその話を聞いて責任を感じ、間に入ってくださいました。

よくモンスターペアレントと言われたりする現在ですが、

指導者側からすると、私はおそらくそんな風にはうつらないようです(良かった!)

・・・・・

しかし、それから2週間経って、

この2週間はなんだったの、という惨憺たる結果でした。

真ん中の週に、私からの希望で入れ込んでもらった「嫌な気持ちを払拭するための楽しい活動」は予想通りうまくいったにも関わらず、それを次の回で指導者が全く活かすことができなかったのです。

指導者側としては、事前に今日の予定について話をしたいだろうと思い、親子で早めに到着したにも関わらず、
指導者は出てこない。

サブの指導者はいたので今日のメニューを聞くと、

「それ、うまくいってなかったときと全く同じやん」でした。

今まで何聞いてたん?
何見てたん?
先週何感じたん?
それをどうしたらいいかベテラン指導者からいただいたアドバイスは?
私が繰り返し話した、うまくいくセオリーは?
全部どこいったん???
何一つ活かすつもりないやん。

レッスンが始まる前だったので、急遽ここだけは守ってほしいとお願いしたことさえ、
やってもらえませんでした。

・・・・・

そんな状況をすぐ横で見ていた、
長い付き合いの友達がぽつっと言いました。

「あの時の、あの場面とよく似てるのに、結果が違うね。」

・・・・・

そうあの時の、あの場面とは。

遠方であったが、ある指導者が、目の前で息子とやりとりしながら遊ぶ姿を見ながら、
そのやり方を見て、その考え方をうかがって学びたい。

そう願ってそれが叶って行った先で、3か月後

「担当者が、新人のAに代わります。」と突然言われた時。

Aさんはとても熱心で明るい方でしたが、なんせ新人さん。

思うように息子とやりとりできず、

ただただ息子の後ろを追いかけているだけ。

担当者から考え方をうかがうどころか、「すみません、お母さん」と言われる始末。

しかも、担当者が突然代わるなんて説明を受けていなかったし、

全く納得できず、異議を唱えたことがあった。

新人のAさんの前で異議を唱えることは、とっても酷だと思ったけど、

「少しだけ長い目で見てください、お母さん」と言われたけれど、

私が欲しいのは、そんな生易しいものじゃないのに・・・

気持ちの折り合いがつかなかった。

・・・・・

異議を唱えた後、家に帰り、

私はAさんに長い長い手紙と、

息子が好みそうな活動を書き、

家で私と好んでやる活動のマニュアルをたくさん入れて、郵送した。

私は、ただ文句を言うだけの親ではないと思っているから。

少しばかり、新人さんには酷だったかなという思いがあったから。

そこに少しでも早く修正が入り、意義のある活動にしてほしかったから。

すぐに辞めるということは、私にとっても息子にとっても、逃げることだから。

・・・・・

その後、Aさんはその手紙を涙を流しながら何度も読まれ、

たくさん準備をされ、朝早くからシミュレーションを重ね、

次のレッスンを迎えました。

いきなり、指導が上手になっていたわけじゃないけど、

その素直さ、まじめさ、真剣に取り組もうとする気持ちが

ひしひしと感じられました。

「お母さん、資料をたくさん送っていただきありがとうございました。
お母さん直伝のメニューも組み込み、まずは彼の反応をよくし、
関係を作るところから頑張ってみますので、
もう少しお時間をください。」

・・・・・

いきなり指導が上手になられなくてもいい(というかそれは無理だから)。

失敗してもいい。

でも、真剣に向き合っていこうとされる姿勢や、
素直な姿は、
親から見たらすぐにわかります。

そんな方と、息子と関係を作っていってほしいのです。

貴重な学びの機会を、無駄にしたくないのです。

息子に対して、技術や勉強や運動がうまくなることを期待しているのではありません。

ただ、人と向き合い、モノと向き合い、行動やコミュニケーションを学ぶのに、

どんな考え方を持った指導者であるかということが、息子にとって非常に重要なのです。

それを、母親以外の誰かと成立させられる、という機会が重要なのです。

・・・・・

親の立場になったとき、

意義を唱えるのは難しいことでもあります。

すぐに「モンスターペアレントだ」と思われては、話も聞いてもらえません。

私はこれまで、以下のような方法をとってきたのかなと思っています。

1.怒るのではなく、冷静に状況を説明し、親としての考えをしっかりと伝える。

2.必ず具体的に改善・修復させる方法を提案する。

3.親ができることはどんなことかを伝える。

4.先にやっておくべきことがあれば親が引き受ける。

5.指導者の意見をきく。

6.指導者が納得してくれたら、事前にどんなメニューややり方をするつもりかをうかがっておく。


・・・・・

それでもうまくいく時もあれば、うまくいかない時もある。

それでも、少なくともこの6つのことについて考え、行動しておくことが必須条件だと私は考えています。

・・・・・

タカマミー






2016年7月28日木曜日

相手の気持ちを考える

相手の気持ちを考えて行動するということ。
全く考えていない、という人は居ないだろう。
でも、どの程度、どんな時、誰に対してでも、と言われると、
難しい人が多いのではないだろうか。

・・・・・

小学校に居ると、
子ども同士の揉め事が多いことに気づく。
一日に何度も揉め事と遭遇し、双方の(または複数の)話を聞き、みんなが納得するように収束していく、そんな役割を担うことがどれほど多いことか。

揉め事の仲裁にはそれなりの技術が要る。
私は去年の秋ごろ、全くできなかった。
(慣れない経験のため、頭がハテナ?だらけになっていた)

自分の子供が絡んでいる場合だと、
自分の子供の言いたいことや癖などがある程度わかるので、
比較的状況を把握しやすい。
しかし、そうでない子供たちを相手にすると、本当に何から理解していいのかわからない。

話の前後関係がわからなかったり、主語がわからなかったりする上に、
泣いていたり、怒り震えていたりすると、日本語になっていない時もある。
さらに、自分が正しいのだとそれぞれが主張するので、言い分が交わらない。
言い方は悪いが、嘘が横行する世界だ。

そんな話を紐解いて、みんなが納得するように話をしていかないと、
子供たちにしこりを残すし、先生への信頼も失うし、時には親御さんから苦情もやってくる。

・・・・・

そんな経験の中で、子供の揉め事の多くは、最初の言葉(声掛けの仕方 または 返事)がキーになっていることが多いと気づいた。

「順番代わるって約束してたやん。代わって。」
→「む~り~」

「次、ボール使わせて」
→「(自分のチーム内で多数決)使わせてあげてもいいと思う人~誰もいません!」

「これ、開けたの誰?」
→「おれ、やってないし!○がやってたし!」

・・・・・

例えば、学級に一つしかないボールを、休み時間に交代で使うとなると、
明確なルールはない。
でも、順番に使うなり、一緒に遊ぶなり、折り合いをつけないといけない。

勇気を出して「貸して」って伝えた返事が
「む~り~」だったら?

誰でも腹が立つと思うのです。

・・・・・

あのね、「む~り~」ってみんな言うよね。
遊びで使う分には、今時の言葉なのかなぁって思うから別にいいんだよ。
でも、自分が本当に貸してほしくて勇気を振り絞って伝えたとき、
その返事が馬鹿にしたような「む~り~」だったら、どう思う?

うんうん、そう嫌だよねえ。
先生だって、嫌だわ。
それに対して、何か言い返してやらなければ気が済まないと思っちゃう。
そしたら、絶対に言い合いになるよね。
喧嘩になるよね。

何か言いたいなと思ったとき、
相手がムカッとする言い方なのか、
「そっかあ、わかった」って思ってくれる言い方なのか、
ちょっとだけ考えてから、話せるといいなあ。
先生が言っていること、わかる?

・・・・・

先日主人が同僚と話をしていてこんな質問をされたそうです。
「なあなあ、出張行くって奥さんに伝えたら、なんて言われる?
うちはなあ、”やったぁ”って言われるんや~」
そう、自嘲気味に。

この話題、奥さん同士の会話の中では非常によく出てくる話です。
私も主人が出張だと聞いたら、
気持ち半分は”やったあ、ご飯手抜きできちゃうなぁ”なんて思います。
気持ち半分は”仕事うまくいくといいなぁ”と思います。

その同僚の奥様も、私と同じような気持ちなんじゃないかと思うのですが、

「意外とその冗談、旦那さんに通じていません!」

・・・・・

そんな返事をされても、
旦那さんは奥さんと喧嘩せずうまくやるために笑っているかもしれませんし、
無表情かもしれません。

時々であれば、冗談だと思って一緒に笑えるかもしれません。

でも、そんなに嬉しくないですよね。
居ない方がいいなんて、やっぱり言われたくないですよね。

私自身、いつもいつも人を思いやった表現ができるわけではありませんし、
不要な発言もたくさんしていると思います。

でも、主人の出張に「やったぁ」だけは言いません。
主人があまり良い気持ちにならないことを学び、それを知っているからです。

私の返事は、
「そうか~、気を付けて。」
と言うこともありますし、
余裕があれば、
「宿の温泉タオル持って帰ってきてな~」
「明後日は、博多明太子で乾杯か~そうか~ウヒヒ」
などと言う時もあります。

相手が、嫌な気持ちにならない言葉を知らず知らずに選んでいます。
※仕事でひどく思い悩んでいるときには、まさか「明太子」は言いません。

・・・・・

絶対にここだけは、気持ちよく会話のキャッチボールをしよう。
そんなシチュエーションを思い描いておけば、
できるようになると思うのです。

子供たちには
「”今サッカーであと一点入ったらゲーム終了やねん。あと5分待ってくれる?”
”じゃあ、一緒にやらへん?”
例えばそういう返事が返ってきたら、みんなはどう思うかなぁ?」
と投げかけます。

そうすると、
「それなら、腹が立たない気がする。」
「話し合えそうな気がする。」
そんな答えが返ってきます。

・・・・・

すぐにできるかどうかは別にして、
そんな風に心がけて、過ごしていれば、
うまくいかなくても反省します。
次こそはと思います。

そうやって、学んでいくものなんでしょうね。
そういうことが多くの場面でできるようになると、
相手の気持ちが考えられる人、になっていくのではないでしょうか。

・・・・・

発達障害や知的障害を持っている人であっても、
一回一回丁寧に「正しい方法」を伝えて積み重ねていくことで、
いつか身体に染みついて、パターンとしてできるようになる、と思います。

私自身も「主人の出張といえばこの答え」というパターンで
うまくやり過ごしているとも言えます。

結局はその心がけを始めることが、「相手の気持ちを考える」一歩になると思うのです。

・・・・・

タカマミー



2016年7月16日土曜日

幸せのレベル

蒸し蒸しした気怠い季節です。

家族みんなどよーんと気怠そうですが、
自分自身もなんとなく疲れが溜まってきて、
「土曜日の朝は起きられないだろうな」
そう思って休みました。

・・・・・

翌朝(土曜日の朝)8時くらいに息子が活動している音がします。
・・・キッチンでガチャガチャ音がするけど大丈夫かな・・・

すると主人の声がキッチンから聞こえてきました。
・・・あ、ちゃんとフォローしてくれているな・・・

しばらくして、父子で私の寝室までやってきました。
「お母さん、起きて。着替えて。」
そうやって起こされました。

階下に下りると、
息子は自分で着替え、
なにやらお父さんに見守られながら好みのものを調理し
(おそらく納豆オムレツでしょう)、
調理したものを食べて、
その後薬を出してきてのみ、
歯磨きを(適当に)やって顔を洗い、
あとは出掛けるだけ、というところでした。
・・・時間が十分ある日であれば、朝の支度は自分でできるね・・・

主人は、
”洗濯機を回す”をしようとしてくれていたところでした。
・・・朝にやらないと乾かない、私の一番気にしていることをわかってくれている・・・

起きてなんとか着替えたはいいものの、
身体が動かずぼんやりしていた私。

やらなければいけないことをそれぞれやっている二人。

リビングでうつらうつらしながら、
身体はしんどいけど、なんか幸せ。
そう思いました。

・・・・・

数年前であれば、息子は朝の支度を自分ですることができなかった。
私が促さなければずっとパジャマだった。

階下で音がしたら、すっとんで起きなければ危険だと思った。

主人は去年の今頃は単身赴任中だった。
私の代わりに息子をフォローしてくれる人は誰もいなかった。

主人は数年前までは、私の一番やってほしいことをやれる人ではなかった(ような気がする 笑)

いつもいつも伏せっていた私だったので、主人も嫌々しぶしぶ仕方なく用事をやってくれていたけれど、今はそんな雰囲気は微塵もないので、ただただ有り難い。

・・・・・

下を見て暮らすというのとも違う。
それだけいろんなことが改善し、人間関係もよくなり、健全な家族になってきているのだと感じる。

上を見ればきりがない。
誰だってもっといい生活をしたいと思う。
お金が有り余るほどあったり、あくせくしなくても時間に余裕があったり、
子供が優秀であったり、両親がいつもフォローしてくれたり、
自分が美人であったり優秀であったり、旦那さんが三高(古い?)であったり、
便利な場所で素敵なおうちに住めたり。。。

全部において最高のものをもっていても、幸せと感じるかどうかはわからない。
人それぞれ、人の考え方によりけり。

日々自らが心がけることが定まり、
周りへの寛容な気持ちが育つ、
それがその人なりの幸せにつながるのかもなぁと最近感じる。

・・・・・

タカマミー

2016年7月4日月曜日

しんどさに向き合える子

世の中の「つまづきを持つ」子供たちを見ていて感じること。

しんどいこと(大変なこと)に向き合えるか否か。
向き合える気持ちを持っているか否か。
もっと言えば、そういう練習をしてきたか否か。

これは発達障害や知的障害、のあるなしに関わらず、
子供に共通して言えることだと感じる。

学童期に入って、それが多少なりとも備わっていないと、
集団生活で何かの壁にぶつかる。

・・・・・

では、しんどいことをする練習をしたらいいのか。

私はそれは違う断言できる。
それでは、ただの苦行になるだけ。

子供ならでは、その子ならではの楽しい活動や遊びの中で、
「楽しい」「もっとやりたい」「新しいものにも触れてみたい」
そんな気持ちを十分養うこと。

そして、できればお母さんと「一緒に何かをできることが楽しい」を育てること。

そして、その遊びや活動の中で、
ルールを伝え、それを守ることを教える。
その子に理解できる小さなことで良いので積み上げていくこと。

そしてできれば、守れるようになるまで、一つのことを伝えやり続けること。

たとえ泣いても怒っても、お母さんが決めたことは簡単に覆さないでほしい。

・・・・・

例えば、
<1>
ご飯を食べる前に、手を合わせる。
ご飯を食べた後は、お茶碗を重ねる。

~こういうことは、習慣として誰もが取り組みやすいですね。

<2>
ご飯を食べる前には、必ず使ったおもちゃを玩具箱に入れる。
(最初は一つだけでも良い、後はお母さんが片付けても良いと思います。)
お母さんがもうオシマイと言ったら、必ずそれを止める。
(お父さんがいいじゃないかと言っても、覆さない)

~こういう躾的なことも、「まあ、いいか」ではなくルール化すると良いですね。

<3>
できないことやわからないことがあれば、素直にお母さんに手伝ってもらう。
(自分で!という時期もあると思いますが、折り合いをつけることも学ばせましょう)
何か物事をやってもらっている時には、側で見ていることを促す。
(一緒に参加していることにもなりますし、ありがとうという気持ちもはぐくめます)

~さて、子供だから「まあいいか」となっていませんか?

<4>
物を受け取るときは両手で受け取る。
物を渡すときはそーっと渡す。
用事があるときは自分から出向く。
などなど

~え、そんなこと?と思うかもしれませんが、重要です。

<1>は比較的どなたでもされている躾だと思うのですが、
<2><3><4>になるにつれて、難易度が上がってきます。
私は、<2><3><4>のようなことを小さいころから積み重ねておくことはとても重要だと思うのです。

しかし、このようなことを教えようと思うと、
一緒に活動し、一緒に遊んでこそ、
教えていけることでもあります。
後で伝えたり教えたりしても、うまく伝わりません。
行動してみてナンボ、なのです。

・・・・・

子供が学校で授業中に困っていること、
友達関係の中で困っていること、
たくさんあります。

私なりに言葉にしてまとめてみると、
「我慢ができない」
「自分勝手」
「決められたことが守れない」
となります。

このようなことは、幼児期からの積み重ねがとても大切だと感じます。

健常児でも大切に取り組みたいことであると同じように、
理解や定着に時間のかかる障害を持った子供にとっても、
確実に取り組み、身体に染みつくまで継続してあげて欲しいと思うのです。
並大抵のことではありません。

・・・・・

言い換えることもできます。
多少できないことやわからないことがあっても、
「やりましょうと言われたことに応じられる」
「嫌だなあと思っても、折り合いがつけられる」
「工夫してあげれば活動できる」
「ダメと言われたことに素直に従える」
などができていると、
素直でいい子だな、
なんとかしてあげたいな、
彼ができる方法を考えてあげたいな、
と周りは思うのではないでしょうか。

・・・・・

タカマミー

2016年6月29日水曜日

初めてプールが楽しいと思えた日

水が怖いし、顔もつけられない。
プールの授業嫌い。

そう言って浮かない顔をしていた男児。

水に入った彼の姿を見ると、確かに水が怖そうだし、
すぐ鼻に水がはいってゲホゲホしているし、
みんなと一緒のことをさせようとすると体が硬直する。

少し関わってみて、
「楽しいと思えないと、この男児はつらいなぁ」
そう思っていた。

・・・・・

「明日のプール嫌やねん。でもタカマミー先生と一緒にやったら、やってみたい。」
とのこと。

話し合いの末、男子が泳ぐ時間帯のみ、私と別メニューをすることになりました。
(それ以上の特別扱いはできませんでした)

と言ってもたいして時間もとれないので、
ただ顔をつけてみたり(3秒、4秒、5秒)、
壁に向かって手を伸ばして顔をつけてみたり、
伏し浮きの状態で顔をつけてみたり。

私は泳ぎのプロではないので、ありきたりと思えることをしたまで。
自分自身は泳げるので、きっとこうだろうなという予想とシミュレーションで考えただけ。
目指すべき伏し浮きは、沈むんじゃないかと感じるような怖い態勢なので、
手を支え、股関節のあたりを水面付近で支え、
「プカーン」と浮いている感じを捉えてもらうように補助してみた。

今日の帰り、
「今日、初めてプール楽しいと思った!今度も練習したい!」
そういって笑顔になってくれた。

今日、特別メニューの許可を得に担任の先生と話をしたとき、
「わかった、でも今日はタカマミー先生やけど、次は僕とかもしれんし、△先生とかもしれんからな。絶対タカマミー先生と、とは限らへんぞ!」
そういって釘をさされていたが、次回はどうなりますやら。

・・・・・

関わった子供全員とは言わないが、
こうやって子供から「是非に」と指名してもらうことが増えてきた。

親身になって、面白そうに、その子にとっては少し簡単なことを繰り返し、
その子の興味に合わせてメニューを組み立てる。
私は長く応用行動分析で息子を療育してきたが、
今は、初期の「良い行動に強化子(ご褒美)を与えて」技法は、ほとんど用いない。
基本は、「その活動そのものが楽しく、もっと、またやりたいなぁ、タカマミーと」
そう、活動自体が強化子になるように工夫する。

それは、きっと彼らにとって長続きし、定着していく方法だからだ。
最初はタカマミーがメニューを工夫をしないとモチベーションがあがらないかもしれないが、
そのうち、活動自体がよく理解でき、完遂したいと感じ、もっとレベルアップしたいと感じたら、タカマミーがフェードアウトしても彼ら自身の活動として生き残る。

そんな日が来るように、最初はみっちりと面白く一緒に活動する。
準備も、環境設定も、周りへの協力要請も、シミュレーションも、
考えたり行動したりすることはたくさんあり、意外と大変。

でもそれよりも、子供がやる気になってくれて、目を輝かせてくれることを想像すると、
やってしまうのです。

そしてそれが、私と息子(Sちゃん)との14年間の歴史でもあるのです。

・・・・・

図工を見て欲しくて廊下で30分待っていた子供。
漢字ドリルを犯人の声明文に見立てて(これほんとに良かったのかは疑問ですが)取り組んだ子供。
発足したチームタカマミー、メンバー3名。
いろんな子供との話を、また綴りたいと思います。

・・・・・

タカマミー

2016年5月31日火曜日

人生苦もありゃ・・・

どうしてだか義母にとって、私は自慢のお嫁さんだったようだ。
結婚すると決まった時も何故か大喜びだった。
義母が好きな「京都」の人といっても、ただ京都の片田舎に住んでいるだけで、
小さな家のサラリーマンの娘だし、土地も財産があるわけでもない。
頑張りや頭がついていかず(笑)、学歴があるわけでもない。
モデルのような美貌もなければ、職業も普通の会社員だった。
それでも、可愛くて可愛くて、連れ回したかったようだ。
それから十余年、義母は我々を翻弄し続けてきた(=_=;)
たった一人、田舎で生活する義母に寂しい思いをさせないように、困り事はフォローしてと、
ずっと主人、義妹、私でやってきたけれど。
あまりにも精神的に大変で、もうここ数年は仕事として義務をこなすだけとなってしまった。
遠隔地の家土地管理は我々が、介護関係は義妹が担っている。
遠隔地ではあるが、三人で時々話し合い、方針や対応を決めながら、起こる問題一つ一つに対応している。

時々親戚の方達にアドバイスをいただいてきた。
皆さん口を揃えて
「あなたたちは今の家族、三人が一番大事でしょ。その三人が幸せに生きられるように、それを考えたらいい。」
本当にそうだなあ、そうしないと身が持たないなあ、と実感している。

義母にとって、十余年の間に、お嫁さん(私)は「怖い、キツイ、でも信頼できる、けど到底敵わない」となってしまったよう。
だから、ちょっと注意されるとふてくされて逆ギレして音信普通となる(-_-メ)

でも、義母がいたお陰で、
主人、義妹、私、という同志としての固い絆もできた。

また、障害を背負って生まれた息子のような子供を持った。
それ故に与えられた勉強の機会。実感し体感し経験したからこその学び。
それ故に開けたライフワークとしての仕事や活動。
たくさん苦しんだし、悲しいこともたくさんあるけれど。

人生マイナスもあれば、プラスもあるのかな。

こんなことを書いたのは、普段は忘れて意識しないようにしている義母から嫌味たっぷりのハガキがきたから、である(# ゚Д゚)
主人が見たらまた大怒りだろうと思うので、このまま捨ててしまおうかと悩んでいます(^o^;)

・・・・・

タカマミー

2016年4月27日水曜日

ささやき女将

子どもが何かを発表しないといけなかったり、
何かアイディアを書かないといけなかったり。
そんな機会は意外と学校生活の中に溢れている。

「学区の中で自分の好きな場所を紹介しましょう」
「今日の素敵だなと思ったお友達を発表しましょう」
「私が考えた今日のめあては、、、」

「こんな音があればいいなと思ったことを考えて書きましょう」
書けなくて言えなくて、固まる子の多いこと。
・・・・・

「自分の考えたことを言いなさい。」
「時間がないから早くしましょう」
「考えていなかったんですか?」

そんなことを言われても焦る。
 
・・・・・
 
そんな時、タカマミー先生は中腰でスススーっと近寄っていって
耳元でささやく。

「例えば・・・一日一回は手をあげる、とかどうかな。」
「先生は、○○してくれたお友達が素敵だと思ったけどな。」
「例えば、川のとか葉っぱの音とかどっちが好きかな。」
 
・・・・・
 
たいていの子どもはそれで少し安心して
例えば・・・をコピーしたかのように発言する。
 
・・・・・
 
でも、
「みんなの前で堂々と言えた」
「なるほどと言って貰えた」
という経験はちゃんとできるのです。
 
・・・・・
 
「言いなさい、頑張りなさい」
というよりも、
支援してやって「結果的にできた」
という結果を残すこと。
 
私はそんな風に支援をすることが多い。
 
・・・・・
 
できたって感覚を得た後に、
子どもは私を見る。
こっそり、「やったね」という合図を送る。
その顔は、言わされたという表情ではなく、
先生やったで言えたで!って表情をしていることが多いのです。
 
・・・・・
 
タカマミー

2016年4月22日金曜日

支援者としての新たなスタート

新しい学校に任用されて、
学年付きの教員(支援担当であり、副担任のような役割)
として2週間が経過しました。

1週目、全体を見渡してみて、キーになる子どもを見つけ、
様子を観察し、押したり引いたりすることをはじめました。
その中で、最も逸脱行動が激しかった児童A(発達障害児)との関係を作ること、
これが4~5月の目標だなと考えました。

・・・・・

はじめにAくんに近づいてみた日。
学年集会で、体育座りをするように言われているのに、
座り方も定まらず、隣の子にちょっかいを出し、
いたずらをしたり、喋りかけたり、
教室から持ってきた粘土とハサミを放さない、
隙あらば逃げだそうとするAくん。

私は彼の真後ろに座り、
脚全体で覆うようにして、彼に体育座りを促すような格好をしました。
何も話さず、ただ包み込んでしばらく座っていました。
Aくんはすぐに私に身体を預け、じっと静かにしていました。
しばらくして、あまりに動かないのでのぞき込むと、
すやすや寝ていました。

「あーこの感じ、落ち着くんだなぁこの子。」と私は思い、少し手がかりを見つけた気がして嬉しかったのです。
でも、それを見つけた他の先生は、叱り注意して起こそうとしていました。
そう、学校ですからね。
他の教員との温度差は、仕方がないとしても、
私自身が他の教員から嫌がられずに、立ち位置を確保するのが難しいということも感じました。

・・・・・

教室で。
彼はやることがないというのが辛いらしく、
とにかく手当たり次第何かをしています。
本を読んでいると思ったら、その本を落とし、
次の本を取ってきては読み、
粘土を出して何か作り、
粘土をハサミで切ったり、
それを持ってウロウロしたり、
誰かを攻撃したり、
ロッカーの中に入ったり
ぼんやりしていることがありません。

先生の注意はあまり入りません。
全く言うことを聞かないわけではないのですが、
基本自分のしたいことを手当たり次第しています。

・・・・・

昨年様子を、昨年の担任の先生にうかがいました。
「そうですね、勉強はやる気になればできるし、
全く話を聞いていないわけでもない。
でも、授業中勝手に本を読んだりすることに関しては、
人に迷惑をかけていなければ、放置せざるを得ないことが多かったです。」

・・・・・

そこから1週間が過ぎ、
今週の水曜日には、Aくんは完全にタカマミー先生大好きっ子に変身していました。
「先生、教室に居て。」
「先生、あれやろう。」
「先生、昼休み、ダンゴムシ探しに行こう。」
「たかちゃん!(と呼ぶことにしたらしい)」

そして、促せば授業でやらなければならないことにも取り組むようになりました。
ただ、頭はいいので、すぐ出来てしまうため、
余計に課題を与えたり、別に問題を作ってやったり、
復習させたり、そうやって暇な時間がないことも気に入っているようです。

まだまだ、暇になると本を取ってきて勝手に読みますが、
「本読んでいい?って聞いてからにしてや」と言えば、
素直に「本読んでいい?」と言います。

「さあ、切り替えるときやで」と私が言えば、
多少強引に本を閉じても、「あーもう」と言いながらも、
教科書を探しに行ったりします。
 
もう粘土やハサミは全く出さなくなりました。
 
・・・・・

今後の課題は非常にたくさんあるものの、
まずは支援者である私にしっかりとした信頼をおき、人として好きになってくれました。
まずはそこからだと私は考えています。

この人は絶対にボクを裏切らないし、嘘をつかない。
この人はボクのことを真っ直ぐ見てくれる。
この人はボクが楽しいと思うことに100%付き合ってくれる。

まずは対象児がこんな風に思ってくれること。

しかし、ダメなことは断りますし、
嫌なことは嫌だと言います。
そして、関係ができはじめたら、約束をしそれを守ることも徹底します。
私はお付きの人じゃありませんから。
あくまで、支援者であり、教員です。

それでも、
先生に側に居て欲しいな。
先生に見て欲しいな。
先生と一緒にやりたいな。
先生に報告したいな。
そんな気持ちが芽生えてくれたら、
行動を修正していくことができます。
褒めてやり、良い行動を増やしていくことができます。

・・・・・

息子とは試行錯誤しながら何年もかかった、こういった関係でしたが、
さすがに通常学級に居る子供です。
2週間でかなりの手応えを感じることができ、見違えるようです。

決して簡単ではないことですし、
しかも長い時間かけたからといって成果が出る物ではない。
むしろ、教育現場では、
短時間である程度の成果を出さないと、私の存在意義が問われる(と勝手に思っています)。
その緊張感いっぱいの2週間でした。

でも、やっぱり面白いし楽しい。
彼らの心が真っ直ぐこっちに向かってくる感覚や、
キラキラした瞳を見ると、本当に嬉しくなる。

すっきりした気分で、いい週末を迎えることができそうです。

・・・・・

タカマミー

2016年3月24日木曜日

わたしがやりたかったこと

今日、2016年3月24日、初めての小学校の先生の任用期間を終えました。
約半年間、毎日通い続けた学校。
毎日笑顔を見せてくれた子ども達。
やはり愛着が湧き、離れがたい思いでした。

次の仕事はまだ決まっていません。
決まるかもしれないし、決まらないかもしれない。
こんな宙に浮いたような期間を過ごし、考えたこと。

それは、私は何がしたいと思って、教員になったのかということです。

・・・・・

そうです。
私はしんどさを持っている子供に支援がしてみたかったのです。
自分にどれほどの力があって、それを学校現場でどのくらい活かすことができるのか、やってみたかったのです。

決して、大勢の前で先生として算数を教えたかったのではないし、
担任のようなことをしたかったわけでもない。
・・・・・

そうです。
だから、別に非常勤講師にこだわらなくてもいいのです。
そういう場所と、そういう立場がもし他にあるなら、活動場所を移すだけ。
ただそれだけでいいのだと思い至りました。

・・・・・

学校現場で支援をしていると、とても楽しい。
困難なこともたくさんあるけれど、
やはり私は、しんどさを持っている子供に目がいく。
なんとか前向きに取り組むきっかけを与えてあげられたらと思う。

・・・・・

でも、これでいいのかとも思う。
親の思い、学校の思い、担任の思い、子どもの思い、それがまっすぐ一本の太い線で繋がっているんだろうかと悩む。
それぞれの立場で、それぞれの思いで、ただ良いと思っていることをやるだけでは、長期的な展望が見えない。
それが、一番の悩むところだ。
・・・・・

学校、特に普通学級にいると、どうしても教室に座っていることが大前提とされる。
体育であれば、みんなの中にいることが良しとされる。

では、支援って何?
板書を写させること。
教科書のどこを見ればいいか示すこと。
つまづいている問題をわかりやすくヒントを与えること。

表面的な問題だけを見ればそういうことになるだろう。

でも、そこに気持ちは育つのか?やる気は育つのか?
と言われれば違うと感じる。
私が切り込みたいのは、やはりそういう部分だ。

・・・・・
学校の中で、対応に困る子ども達、はまさに
「困っている子ども達」である。

表面的には「体育の競技に参加しない」であっても、
そこに理由がある。
何かに困っているから「参加しない」のであって、「参加できない」のだ。

でも、「どうして参加しないの?」と聞いても、うまく答えられない。
・・・・・

一人の子どもは、対戦ゲームで争いが絶えなかった。
担任に許可を得て、その子どもと一対一で練習してみる。
「うまく蹴れないこと。素早く動けないこと。」
それは表面的に表れていた現象であった。

しかし、掘り下げていくと、
「身体の軸ができていないこと。」
「片足立ちができないこと。」
「ジャンプがぎこちないこと。」
「持久力がないこと。」
「よって、キックが安定しないこと。」
「狙いを定めてキックできないこと。」
「上手に蹴れないので、あまりパスをもらえないこと。」
「せっかくパスを受けても、相手にすぐとられてしまうこと。」
「自分の不器用さにイライラが募り、ボールを取られると怒ってしまうこと。」
「マイルールにどんどん変更しようとしてしまうこと。」
いろいろな原因があった。

2人でランニングをしたり、
ケンケンパをしたり、
コーン当てゲームをしたり、
ボウリングキックゲームをしたり、
パスし合いながら長い距離を移動したり、
いろいろなことをやってみた。
彼の良いところは、
私との基礎練習も、楽しんで取り組み、
一対一の特別メニューを楽しみにできるようになったこと。
それにより、誰よりも準備や片付けに取り組み、態度がよくなったこと。
勝手にルール変更したくなっても、
私が作った枠組みの中での変更のみに留めることができるようになったこと。

・・・・・

もう一人の子どもは、チームの中にはいることができるが、
顔が曇っており、何もやることがなく、嫌そうだ。
彼も、
「うまく蹴れないこと。素早く動けないこと。」
が表面的な現象に見えた。

しかし、掘り下げていくと、
「好きなところにボールを蹴りたいため、パスがまわせない」
が一番大きな問題であった。
一対一で練習するうち、
「味方と敵を認識しておらず、ルールがわかっていなかった。」
ということが一番大きな問題であることがわかった。

彼の良いところは、一対一で練習するうち、
「わかった、今までそんなルール知らんかった~!」と自分で気付いたこと。
ゲームに入ったとき、「味方は誰?」と聞き、気付きを活かそうとしたこと。
何より、私が側にいるだけで、とても頑張って参加できること。

・・・・・

こういった支援をしている間、
表面的には「その児童をただ甘えさえている」ように見える場合があると思う。

しかし、どういう意図で「甘えさせている」のか、
それだけで終わらせるつもりはなく、その後の打ち手をどうしていくのか、
そこが担任と話し合っておけると、お互い阿吽の呼吸で協力関係になれる。

しかし、担任とシェアするところにまで至らないと、
「甘やかして」と見られるだけになってしまうのである。

いいじゃないの、甘やかしたって。
そこにビジョンがあれば。
まずは、甘えて頼りたくなるような人、そんな支援者であった方がいいと思うんだけど。
私、甘えて頼りたくなるような人になれているみたい。

・・・・・
半年間もいさせていただいたので、
支援以外の仕事もたくさん経験させていただきました。
担任の代わりをしたこともあるし、
風邪で声がでなくなった先生の代わりに授業をしたことも。
行事の裏方も経験することができました。

経験は、なんでも私の肉となりました。
本当に経験値が増えましたよ。

・・・・・

そして、
「ママには使命がある。
そんなママの使命を果たしたらいい。
それがどんなことであっても、応援したいとおもう。」
そう言って私を一番理解してくれる旦那さんが居ること。

収入に関しては今までどおり完全に寄りかかるよ、と言ったら
「当たり前や、任せておけ。
ママに収入があれば、それはみんなでパーっと行こう!」
そういって笑ってくれる。

ストレスいっぱいのはずなのに、何故かいつも脳天気に見える、
そんな有り難い旦那さんに今日も救われる。
少し遠い、九州の地で頑張っている旦那さん。

仕事っていいね。
そんな気持ちを共有できた半年でもありました。
・・・・・

タカマミー

2016年2月6日土曜日

お母さんの気持ち

勤務先の小学校の参観日の日。
今頃だと、同日に絵画や造形の展示もする学校も多いのではないだろうか。
・・・・・

体育館で絵画の展示を見て「いいところ探し」をする授業があった。
子供達と一緒に体育館にいって、
たまたま支援学級のお友達のコーナーで数人の児童と
雑談していると・・・

こちらをじっと見ているお母さんがいらした。

もしかしてと思い
「○さんのお母さんですか?」
と尋ねた。
同じ学年の支援学級のお友達のお母さんかなと思ったのだ。

「そうです。」
とお母さんはおっしゃった。

「はじめまして、私この学年に入らせて貰っている△です。
○さんとも時々一緒に活動をしています。」
と自己紹介した。

「そうだったんですね。」
そう言って頭を下げられた。

「○さんの版画、いいですね。
これいいねってみんなで話してたんです。」
と私が言うと、

「体育館に入ると、うちの子の名前が聞こえるので、
何かなと思って近づいてきてしまいました。」
そういって目をウルウルされた。

お母さんの気持ちが手に取るようにわかってしまって、
こちらもウルウルしてしまいそうになった。

・・・・・
 
支援学級に在籍していても、お友達と遊べたり関われたり、
または、幼稚園の時からお母さん自身もママ友の輪に入り込まれているような状況だと
そんなにウルウルすることはないかもしれない。

でも、そうではない状況だとどうだろうか。
我が子が普通学級に交流に行っていたとしても、そこではお客様であることはわかっている。
そんな中で、お母さんの輪に入ろうとしてもかなり難しい。
そう、子供だけでなく、お母さんも孤独で寂しい。
仕方がないと諦めていても、やはり疎外感を感じるのは否めない。

・・・・・

その日、同じ学年の子供達が、我が子の名前を言いながら作品を見て批評していたり、
数人で「あ、これ○さんのやん!なにで作ってるんやろー?」とのぞき込んでいたり、
そんな光景を後ろから見ていて、お母さんにはこみ上げてくるものがあったに違いない。

・・・・・

「お母さん、お気持ちとってもわかります。
私も息子が支援学級にいましたから。ジーンとしますよね。」

今回の参観日では、数人の関わりのある児童のお母さんとお話ししたが、
「実は私の息子はこんな状況なんです。」というと、
もうそれだけで、お母さん方の目はキラリーン!である。

こんなところに、こんな立場の人に、同志が居た!
という目の輝き。

・・・・・

その後、また○さんのお母さんと廊下ですれ違った。
お母さんはものすごくにっこりと、深々と頭を下げて下さった。
私も嬉しくて、にっこりと頭を下げた。

・・・・・

タカマミー

2016年1月20日水曜日

「人と一緒が楽しい」

発達障害や自閉症といっても、
誰一人として同じような人はいないので、
少しずれてしまうけど人と何かをするのを好むタイプもいれば、
一人が良いというタイプもいる。

息子は、一人が良いタイプ。
一人が良いというよりも、人が邪魔に感じるタイプ。
だから人と何かを共有するということさえ、全くできなかった。
 
・・・・・
 
でも、それでは困ると思った。
私は、彼の数々の問題行動には、
「人と何かを共有できない」ことに大きな原因があると思っていたので、
幼い頃から、いろいろな方に助言をいただきながら、
地道に取り組んできた。

何をしてきたかということ、
「お母さんがSちゃんと一緒にこれを一緒にやりたいと考えてきたよ」
というアイテムや遊びを、どんどんどんどん考え、
それを楽しそうにやってみせる。
見てくれないこともあったし、
やろうとすると怒り出すこともあった。

一つの遊びを何度か試して、
義理で付き合ってくれるようになったものもあれば、
「却下」されたものもある。

Sちゃんの却下は容赦ない。
何時間練った企画であろうが、
夜なべして作ったアイテムであろうが、
「面白くない」ものは面白くないからである。
しかも、ほとんどがすべて「却下」である。
 
・・・・・
 
そういう活動も毎日何年も続けていると、
時々ヒットする。
最初は、線香花火のたった花一輪だったものを、
花二輪にし、
落ちかける火種をなんとか落とさないように次の花火に火をつける。
いつか、この火種で、もう少し大きい花火が咲かせられないだろうかと、
心は慎重に、遊びは大胆に、楽しそうに活動してみせる。
そんな毎日であったと思い出すことができる。

息子は、今でも人と関わることも遊ぶことも、フリー場面ではできないが、
「こういう風にするよ」という枠組みがあれば、少しはできる。
それがちょっとイイナって笑うときもある。
遊ぶことは上手にできないけど、好きなお友達もいる。
バス停に来ないお友達がいつ来るのかなと待っているようなこともあって、
彼にとっては「人を気にして楽しむ」行為なのかもしれないと思う。
その程度の歩みしかなかったけれど、
それでも少しでも育ったことが、私にとっては大きな成果だった。

・・・・・

あるお子さんが、ある集団の授業の後、
泣いて訴えてきた。
聞いてみると、自分が間違ったことに対して、
人からキツつ言われたことで、いざこざがあったらしい。

人との距離感の難しさを持っている子にとって、
集団生活で人と何かをすることは、
ストレスも多い。
もちろん人と楽しく過ごせる子もいるし、
割り切って一人を楽しむ子もいる。

人それぞれなのだが、意外に人間関係でストレスを抱えていたり、
ストレスを与える火種になっている人は多いようだ。
今日のこの子供達も、しばらくの間イライラした何かを抱えたままとなっていた。
(こちらにも考えがあり、あえて大きな介入はせず、説明して自分で行動させるに留めたから、スッキリしていなかったのだろう)

・・・・・
偶然、今日の宿題忘れに、当事者2人がいた。
2人とも勉強は好きなタイプで、普段忘れたりしないのだが、うっかり。
「休み時間に先生とやる?」と聞くと、「うん、やる!」とのこと。

宿題は音読だった。
一人一人交代で、音読を聞いてやれば良いだけのことだったのだが、

私「なあ、今日は3人で音読やろうか。時間もかかるし、一石二鳥。」
A「えー!一人ずつがいい。絶対ずれるもん。」
B「長いし、しんどいって」
私「まあまあ、そう言わんと。先生が一文読んだら、その後に続いてAくん、Bさんで一緒に付いてきてよ。」
彼らはブーブー言っていたが、やり始めた。

途中から、お互いを意識しながら読み始めているな、と感じるようになってきた。
表情も良い。
時々、二人で顔を見合わせてクスクス言いながら、最後までやりきった。

やりきった後、
A「もう、先生可笑しいわ~」
B「先生のセリフの言い方真似するの、難しいよなぁ!」
めちゃくちゃ楽しそうである。

登場人物に2才の女の子が出てきたので、私は2才の女の子らしく読んだのだが、
それがツボにはまったらしい。

・・・・・

その後、給食時間となったのだが、2人は冗談を言いながら、
めちゃくちゃ楽しそうに笑い合って給食を食べていた。

単純すぎて、「さっきのあの怒りはどこへ?」と思いますがね。

・・・・・
今回、私のセリフが面白かったことに、2人が同調しようとして楽しかったことも加わったのだろうが、
いずれにしても同じ文章を2人で合わせて言う経験。
そして、先生→生徒→先生→生徒、という掛け合いの経験。
2人の、いや3人の一体感が心地良かったというのも大きな要因であると思う。
人と同期する心地よさは、子供でも大人でも同じように楽しく感じられる活動だ。
ダンスとか、コーラスとか、バンドとか、大人が主にはまっていますもの。

やっぱりいいなあ、こういうしかけは。
Sちゃんで培ったことは、やはり他の場面でも活きると感じることができた、
とてもいい一日でした。
 
叱ったり、諭したり、謝ったり謝らせたり、
そういうことだけが大人の役割じゃない。
もう少し、人と関わる根本的なところを一番伝えていきたい。
少しでもそういう何かが伝わるといいな。
 
・・・・・
 
タカマミー


2016年1月6日水曜日

13才、ブランコが漕げるようになりました!

発達障害の子供たち。
乳幼児期の身体の発達に問題がなくても、
上手にできないことがたくさんある。

息子は、身体を動かすことが割と好きだ。
彼のニーズを考えてみると、
ピョンピョン跳んだり、
ぐるぐる回ったり、
勢いよく動いたり、
高いところから飛び降りるような衝撃も好き。
しっかりとした感覚を常に欲しいと思っている。
 
乳幼児期から学童期にかけて、
息子は多くの作業療法士さんと共に、
このニーズを叶えさせてもらった。
いろんな方に手助けをしてもらって、
遊びを実現していたということだ。

しかし、もうその時期は過ぎてしまった。
本当は年齢的にも何かスポーツに転換して欲しい時期ではあるのだが、
まだまだ転換しきれていない。
 
・・・・・
 
ここ半年ほどの間に、
ディの職員さんやガイドヘルパーさんから
「公園に行ったら、ずっとブランコしていましたよ。」
「ブランコ、一時間くらい乗ってましたよ。」
そうお聞きすることが増えた。

私のイメージでは、
まあ好きだけど、遊び込めなくてすぐ止めてしまう遊具。
自分で漕げないから、押して貰うことでしかニーズが満たせない遊具。
誰かが一対一で付いてくれていなければ無理なのだ。
そして、そのお付きの人も、相当体力がいる仕事なんだ。

公園で、社会的な遊びができない彼にとって
公園って大して時間が持たない場所なのだ。
そして、もう身体も大きいし、そうそう行くこともないだろうと思っていた。
 
・・・・・
 
元旦、近くの神社に初詣に行った帰り、
「ブランコする」と息子が言うので、
一緒に公園に行った。

するとなんと、自力で漕いでいるではないか!
自分の身体の軸の移動が可能になっているではないか!
たかーくたかーく空たかく、とっても気持ちが良さそう。
それは、楽しいわぁ。
やりたいことが、自分の力でできるってすごく嬉しいもんね。

そして、たくさんの小さなお友達が代わって欲しいと並んでいたので、
「代わってあげようね」と声をかけると、
ちゃんと自分から遊びを止めることができた。

そして、大きな身体をした息子、
「代わってください!」と次はまたやりたいとアピールしている。
(並んではいられなかったけど・・・)
そしてまた代わってもらい、ブランコをする、ということを繰り返した。
そんな社会のルールにも、対応できるようになってきたんだね。
 
身体が大きく、しっかり漕げるようになった息子のブランコは、
「あのお兄ちゃんぐらい、高く~!」と
小さなお友達にとって憧れるくらいの、漕ぎっぷりだったようだ。

・・・・・

ブランコを漕ぐ。
たったそれだけのことのようだが、
身体の軸がしっかりしていない子にとっては、
あのゆらゆらした小さな板の上に、自力で座っていることでさえ、
難しいことなのだ。
そこから、気の遠くなるような時間を経て、
その間に様々なことに取り組んだ結果、
ブランコを自分で操作できるようになった。
そこまでに、何年費やしているだろう。

・・・・・
 
結果はすぐには出ない。
息子やその他の発達障害の子と接していて感じる。
変化しないということに苛立たず、
じっくり丁寧に接し続けることの大切さを感じる。
 
実は、こんな親の心構えとも言えるスキル、
とってもとっても難しいのだ。
皆さん、これができなくて苦しんでおられるとも言える。
 
常に何かを教え込もう、常に前進していきたい、
昔は、私もそんな親だった。
でも、子供もそんな親が常にぴたっとくっついていたら、
しんどいんじゃないか。
親も、何かにせき立てられるようで、
心が安まる暇がないんじゃないか。

かといって、ただぼーっと過ごすということではない。
「こんな風になってくれたら」
「そのために、こういう活動をしていこう」
そんな方針はしっかりと作っておきたい。
 
最終的に、目標に到達することができないことも、いっぱいある。
願っていたほどにはできない、そんなことだらけだ。
 
でも、ブランコのように、諦めて静観していたら、
自分の力で乗り越えていた、ということもあるから面白い。
 
苛々してせき立てられていた母親の私も、
よく笑い、よく待てる、母親になれたことも面白い。
 
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2016年が始まりました。
ゆったりと、そしてしっかりと子どもに向き合ってまいりましょう。
 
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タカマミー