2016年3月24日木曜日

わたしがやりたかったこと

今日、2016年3月24日、初めての小学校の先生の任用期間を終えました。
約半年間、毎日通い続けた学校。
毎日笑顔を見せてくれた子ども達。
やはり愛着が湧き、離れがたい思いでした。

次の仕事はまだ決まっていません。
決まるかもしれないし、決まらないかもしれない。
こんな宙に浮いたような期間を過ごし、考えたこと。

それは、私は何がしたいと思って、教員になったのかということです。

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そうです。
私はしんどさを持っている子供に支援がしてみたかったのです。
自分にどれほどの力があって、それを学校現場でどのくらい活かすことができるのか、やってみたかったのです。

決して、大勢の前で先生として算数を教えたかったのではないし、
担任のようなことをしたかったわけでもない。
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そうです。
だから、別に非常勤講師にこだわらなくてもいいのです。
そういう場所と、そういう立場がもし他にあるなら、活動場所を移すだけ。
ただそれだけでいいのだと思い至りました。

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学校現場で支援をしていると、とても楽しい。
困難なこともたくさんあるけれど、
やはり私は、しんどさを持っている子供に目がいく。
なんとか前向きに取り組むきっかけを与えてあげられたらと思う。

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でも、これでいいのかとも思う。
親の思い、学校の思い、担任の思い、子どもの思い、それがまっすぐ一本の太い線で繋がっているんだろうかと悩む。
それぞれの立場で、それぞれの思いで、ただ良いと思っていることをやるだけでは、長期的な展望が見えない。
それが、一番の悩むところだ。
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学校、特に普通学級にいると、どうしても教室に座っていることが大前提とされる。
体育であれば、みんなの中にいることが良しとされる。

では、支援って何?
板書を写させること。
教科書のどこを見ればいいか示すこと。
つまづいている問題をわかりやすくヒントを与えること。

表面的な問題だけを見ればそういうことになるだろう。

でも、そこに気持ちは育つのか?やる気は育つのか?
と言われれば違うと感じる。
私が切り込みたいのは、やはりそういう部分だ。

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学校の中で、対応に困る子ども達、はまさに
「困っている子ども達」である。

表面的には「体育の競技に参加しない」であっても、
そこに理由がある。
何かに困っているから「参加しない」のであって、「参加できない」のだ。

でも、「どうして参加しないの?」と聞いても、うまく答えられない。
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一人の子どもは、対戦ゲームで争いが絶えなかった。
担任に許可を得て、その子どもと一対一で練習してみる。
「うまく蹴れないこと。素早く動けないこと。」
それは表面的に表れていた現象であった。

しかし、掘り下げていくと、
「身体の軸ができていないこと。」
「片足立ちができないこと。」
「ジャンプがぎこちないこと。」
「持久力がないこと。」
「よって、キックが安定しないこと。」
「狙いを定めてキックできないこと。」
「上手に蹴れないので、あまりパスをもらえないこと。」
「せっかくパスを受けても、相手にすぐとられてしまうこと。」
「自分の不器用さにイライラが募り、ボールを取られると怒ってしまうこと。」
「マイルールにどんどん変更しようとしてしまうこと。」
いろいろな原因があった。

2人でランニングをしたり、
ケンケンパをしたり、
コーン当てゲームをしたり、
ボウリングキックゲームをしたり、
パスし合いながら長い距離を移動したり、
いろいろなことをやってみた。
彼の良いところは、
私との基礎練習も、楽しんで取り組み、
一対一の特別メニューを楽しみにできるようになったこと。
それにより、誰よりも準備や片付けに取り組み、態度がよくなったこと。
勝手にルール変更したくなっても、
私が作った枠組みの中での変更のみに留めることができるようになったこと。

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もう一人の子どもは、チームの中にはいることができるが、
顔が曇っており、何もやることがなく、嫌そうだ。
彼も、
「うまく蹴れないこと。素早く動けないこと。」
が表面的な現象に見えた。

しかし、掘り下げていくと、
「好きなところにボールを蹴りたいため、パスがまわせない」
が一番大きな問題であった。
一対一で練習するうち、
「味方と敵を認識しておらず、ルールがわかっていなかった。」
ということが一番大きな問題であることがわかった。

彼の良いところは、一対一で練習するうち、
「わかった、今までそんなルール知らんかった~!」と自分で気付いたこと。
ゲームに入ったとき、「味方は誰?」と聞き、気付きを活かそうとしたこと。
何より、私が側にいるだけで、とても頑張って参加できること。

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こういった支援をしている間、
表面的には「その児童をただ甘えさえている」ように見える場合があると思う。

しかし、どういう意図で「甘えさせている」のか、
それだけで終わらせるつもりはなく、その後の打ち手をどうしていくのか、
そこが担任と話し合っておけると、お互い阿吽の呼吸で協力関係になれる。

しかし、担任とシェアするところにまで至らないと、
「甘やかして」と見られるだけになってしまうのである。

いいじゃないの、甘やかしたって。
そこにビジョンがあれば。
まずは、甘えて頼りたくなるような人、そんな支援者であった方がいいと思うんだけど。
私、甘えて頼りたくなるような人になれているみたい。

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半年間もいさせていただいたので、
支援以外の仕事もたくさん経験させていただきました。
担任の代わりをしたこともあるし、
風邪で声がでなくなった先生の代わりに授業をしたことも。
行事の裏方も経験することができました。

経験は、なんでも私の肉となりました。
本当に経験値が増えましたよ。

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そして、
「ママには使命がある。
そんなママの使命を果たしたらいい。
それがどんなことであっても、応援したいとおもう。」
そう言って私を一番理解してくれる旦那さんが居ること。

収入に関しては今までどおり完全に寄りかかるよ、と言ったら
「当たり前や、任せておけ。
ママに収入があれば、それはみんなでパーっと行こう!」
そういって笑ってくれる。

ストレスいっぱいのはずなのに、何故かいつも脳天気に見える、
そんな有り難い旦那さんに今日も救われる。
少し遠い、九州の地で頑張っている旦那さん。

仕事っていいね。
そんな気持ちを共有できた半年でもありました。
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タカマミー