2015年7月24日金曜日

プラス思考でいこう

現状にすべて満足できている。
仕事も、家庭も、友人関係も。
自分の容姿も、才能も、学歴も。
持ち物も、住居も、車だって理想通り。

中にはそんな人もいるかもしれないけど、
私は違う。
 
・・・・・

自分自身のことを言うと、コンプレックスだらけだ。

中学生くらいまでは、多少できる子だったのだが、
深く長く勉強をし続ける根性と体力が欠落していた。
自分の体力や、その後の人生のことも考えて、
なんとなく最終学歴を小さくまとめてしまった。

容姿だって、コンプレックスがたくさん。
自分の欠点をどうカバーしたらいいか、考えたり工夫したり、投げやりになったりする。

家族だって、予期しない問題だらけの子供を授かったり、
両家の父母のことでイライラしたり、気を揉んだり、労力を使ったり、そんなことだらけ。

人付き合いだって、本当はちょっと苦手。
友達を作るのもちょっと苦手。
異性とのお付き合いは、非常に苦手分野だったのだ。

そして、ちょっと完璧主義なところがあって、
それを人にも強要してしまうような、窮屈な性格だった。

冗談を言われて上手に切り返すなんて、全くできなかった。

ごめんなさいって謝ることが下手だった。
 
・・・・・

悩み多き私が、何をきっかけに変わったのか。
息子である。
そして夫である。

息子の障害がわかったのは、彼が3才になったときだった。
障害児の親は、我が子の障害が判ったとき、
たいてい「深い闇の中にいるようなどん底の気持ち」を経験しているだろうと思う。
一生立ち直ることができないし、笑うことができないだろうと、その時は思っただろう。

でも、現実は待ってくれない。
子供に手はかかるし、着替えないといけないし、食べないといけない。
誰かが仕事をしなければ、お金だって稼げない。

そうして、何ヶ月か、何年かかかって、いつしか笑うことができるようになる。
そして、だんだん穏やかな気持ちや前向きな気持ちを取り戻すようになる。

それは、
「現状を嘆き、諦め、絶望する」
↓ ↓ ↓
「現状を受け入れ、今よりも良い状態でありたいと願い、行動する」
という思考へ切り替わったからではないかと思う。

思考が切り替わってしまうと、前向きになれると思うのです。

・・・・・

息子のことで言うと、

「会話ができない」
↓ ↓ ↓
「最低限の要求を伝えることができるようになった」

「癇癪を起こしてしまう」
↓ ↓ ↓
「癇癪は起こすが、嫌なことは”いや”と伝えられるようになった」

「いつも外に居たくて、勝手に外に出てしまう」
↓ ↓ ↓
「外に出たくなることは多いが、”お外行こう”と伝えることができる」

こんな風に、息子自身の特性や感情の起伏など、
急には変えられない面も多いけれど、
少しずつ生活がしやすくなり、対応がしやすくなっていく。
この変化、私には「幸せ」なのです。

だから、積極的に息子に介入することで、
彼を、”今よりも少しできる子供” にしていこうと決めました。

完璧を目指すというのは現実的ではありません。
T大に入り、年収が3000万で、美貌を持ち、家族も裕福で優しい人ばかり。
そんなレベルの人が、日本に何人いるでしょうか?

ただ、普通に幼稚園に通って、小学校に行って、ということすら叶わない息子にとって、
会話ができることを求めるのは、それぐらい突拍子もないことなのです。
 
その子なりの、成長を願い、促し、認めてあげること。
その小さなサイクルが完成することって素晴らしい成果なのです。
すごく満足感の得られる結果なのです。

・・・・・

また、息子に関わって下さる周囲の方達への期待もしかりです。

「先生が、子供に学習面を教えてくれない」
↓ ↓ ↓
「先生は、自立できていない朝のカバンの用意を定着させようと努力してくれている」

「先生が、宿題を出してくれない」
↓ ↓ ↓
「子供の状態や様子を見ながら、自分のさじ加減で自宅学習をさせてやることができる」

「先生が、子供が最大限を発揮できるようにフォローができない」
↓ ↓ ↓
「少なくとも、子供が楽しく活動できることを見つけて認めてくれる」

こんな風に捉えてみてはいかがでしょうか?
私の思考回路は現在、こんな感じなのです。
基本的に、周りに期待しすぎないで、母である私を軸において考えています。
悪く言えば、ジコチューです。
 
・・・・・

実は、一生懸命な親御さんの悩みが不満となって、
周りの療育者や教育者に向けられてしまうことがあります。

例えば、学校の先生、療育で携わるOTさん、STさん、心理の先生、放課後ディのスタッフなどなど。
「~してくれない」「~がわかっていない」と感じてしまうようです。
親として、学校に行っている間に最大限活かして何かを得てきて欲しいと願うことは無理もないのでしょう。
訓練で何かを得て帰ってきて欲しいと強く願いますし、これだけ労力もお金もかけているのにと思いたくもなるのでしょう。
そして、「先生」と呼ばれる人が、万能選手であるはずだと、つい思ってしまうのです。
いろんな役割を網羅して、子供のことを全部知って、考えて、アドバイスをくれる人が何故いないの、って思っている人もいます。

そうです。完璧に教えてくれれば、完璧な環境であれば、理想的です。

でも、現実はすぐ結果なんて出ないし、理想的な環境は残念ながらありません。

それが、どんな障害であっても同じだと思うのです。

だから、現状では、親が情報収集をし、コーディネーターになるしか方法がないのではないでしょうか。
必要なものを取り入れ、不必要だと思ったら取り除き、形を整えていくしかないと思うのです。

そして、子供の周りで関わってくださる先生方のような”支援者”の皆さんを、
気持ちよく、熱心に、最大限努力してもらえるように、
自分が働きかける人となればいいのではないでしょうか。

”支援者”の皆さんのプライドを傷つけないように、
時々プライドをくすぐりながら、
より良い協力者や指導者になっていっていただくこと。
ものすごく大変な仕事です。
 
・・・・・

このように思考を変化させていくと、相手への「ダメ出し」が減ります。
ダメだな、と思うこともいっぱいあるし、
もうちょっとこうしてくれたら、なんて思うんです。
でも、あれもこれもじゃなくて、時期を見てたった一つだけ伝えてみる。

「私、息子に昨日夕食前に○をやるように言ったら、
モチベーションがあってしっかりやれたんです。
先生、良かったら給食の前に、
嫌いな課題を頑張ってみようって、
誘っていただくことできませんか?」

こういうお願いの仕方はいかがでしょうか?
 
先生もプライドを傷つけられていないですよね。
お母さんも実際できたって言ってるし、
やってみる価値があるかもしれないぞ、と
次の日試してくださるかもしれません。

そしてもし、
「お母さん、やってみたんですよ。昨日より少し長く頑張れました」
なんて報告を下さったら、
手放しで先生にありがとうと言いましょう。
先生がすぐに行動してくださったことに感謝しましょう。
先生と親が協力していく関係は、そこから始まるような気がします。

・・・・・
 
夫は、私にダメ出しをしません。

私を楽しい気分にさせようと、生活の中にふんだんに笑いを盛り込んできます。

私の失敗を笑って済ませます。

私の得意なことを、しっかりと褒めます。

私のやることを、信じて応援してくれます。

人に対して、とても丁寧です。

それが、どんな年齢の人にも、どんな性別の人にでもです。

そして、人一倍努力家ですし、諦めません。

どちらかといえば楽天家です。
 
それが彼の良さです。

もちろん、ここには書きませんが良くないところもありますよ(笑)

息子の難しさが、私を勉強熱心に、忍耐強くし、
夫のふるまいが、私の考え方を徐々に穏やかにしていってくれました。
 
まさにプラス思考になってきている、と思います。

・・・・・

マイナスの言葉を相手に発すると、
相手がネガティブな気持ちになるだけでなく、
その言葉を発した自分もネガティブ方向に引っ張られます。

愚痴をこぼすくらいはどんどんしたらいいのです。
それですっきりするのなら。

愚痴をそのまま批判に変えて、相手に伝えてしまうのではなく、
相手がプラスに受け取れるように、表現を変化させる。

これは、テクニックです。

私が担当している通信講座のテキストにも、そう書いてありますので、
私の考えでもあるかのように、受講生にもアドバイスとして書いています(笑)

でも、本当にそうだなと思うのです。
言葉には魂がある。
 
・・・・・

自分が変わってから、人にも変わることを求めていこう。
自分が何か行動してから、人にも行動してもらうことを求めていこう。

そして、プラス思考でいこう。

・・・・・

タカマミー





2015年7月15日水曜日

空気を読む

空気を読む。
KYなんて言葉が造られたくらいに、
空気を読めないことは、あまり良くないこととして扱われる世の中です。

そもそも「空気を読む」ってどういうことなのでしょうか?
 
・・・・・

私の息子は、典型的な自閉症、特に社会性の重さが顕著でした。
社会性の重さが顕著な子は、
「クレーン現象」という行動をとることがあります。

例えば、子供が食べようとしているお菓子の袋が開けられないとします。
子供は側にいるお母さんの腕を掴み、
お母さんの腕をお菓子の袋のところに持っていこうとします。
お母さんに「お菓子の袋を開けろ」という要求です。

まさにお母さんの腕をクレーンのように扱って、
自分の要求をかなえようとする行動です。

健常児の、まだ言葉をしっかり操れない幼児期に見られることもあるようです。
しかし、大きく違うのは、

(A)お母さんの顔(目)を見ながら腕を持っていこうとするのか
(B)お母さんの顔(目)を見ないで腕を持っていこうとするのか

ということだと思います。

健常児は、要求をかなえようとするとき、
お母さんの手が要求をかなえてくれることを知っているので、
思わず腕を持ってしまいますが、
その時(A)のように、
お母さんにアイコンタクトをして「目で」要求を訴えることができます。

しかし、社会性の重い発達障害の子供は、
要求をかなえてくれるのは誰か第三者の「手」であって、
その先に意思の伝わる顔や目があるということに気付いていません(B)。
つまり、第三者の手であれば、誰の手でもよいのです。
手さえ持っていけば、自分の要求がかなうと思っているのです。
 
・・・・・

息子は当然、(B)のようなクレーンでしか要求を伝えることができませんでした。
要求があるときでさえクレーンですから、
それ以外の場面で私の顔や目を見ることは皆無です。

これはとても大きい問題として、私にのしかかりました。
つまり、物を見ることはできるけれども、
人を見る(気にする)行動が皆無だということなのです。
このことが及ぼす影響は、
社会生活全般にわたり問題行動としてあらわれます。

・・・・・

息子は今でもまだ、アイコンタクトや人を見ることは不得意ではあります。
しかし毎日毎日、私と一緒に練習をしたので、少しずつ上手になりました。
 
自分の要求をかなえて欲しい時は、
相手の目を見て「~していい?」と聞くことができるようになりました。

すごく楽しそうなことをしている人を見たら、真似をすることもあります。

自分が見ているYouTubeの動画で好きな場面が出てきたら
「お母さん、落ちたー!」と一緒に見て共感して欲しいことを伝えてきます。
 
「足、しびれた~」と私がいえば、
「お母さん、足しびれた~?」と足をツンツンして共感してくれるようになりました。

自分が何か悪いことをしてしまい、私が怒った表情をしていると、
その表情がおさまるまで”シュン”としています。
「お母さん、怒ってる?」と聞いてきます。
 
・・・・・

自分のコンディション(体調・精神面)が悪かったり、
非常に気になりすぎることがあったり、
見通しがつかなかったりして混乱している時など、
周りをみるどころではない時は無理ですが、
落ち着いているときであれば、
彼なりの「空気を読む」行動をするようになりました。
 
・・・・・

「アイコンタクト」ができるようになること。
そして、相手の表情や動きを見ることができるようになること。

これが、「空気を読む」ということに、密接に関係していくと思います。

これらが元々備わっていない発達障害の子供には、
とてつもなく大変な仕事ではあるのですが、
多少なりとも育てていくことが可能だと、息子を育ててみて感じます。

これは、一方的に話してしまうようなタイプの子供でも、
同じように育てることができます。
人の表情や動作を見て、自分の行動をどうすべきか
判断することに繋がっていくからです。

完璧を目指すことは無理でも、
ちょっとでも育っていけば、
彼らの、また親の世界は広がるはずです。
 
・・・・・

どれだけ世話をしても、
どれだけ愛情をかけても、
見返りがない子育て。

息子のような社会性の重い子を育てていると、
そんなフレーズが時折頭をよぎります。
しかし、彼が私の目を見て何かを訴えてくれる、
それだけで十分な見返りだと感じるのです。
親として、ただただ、嬉しいのです。
 
永遠の片思いは、続かない。
親だって、子供から求められたいのです。
愛を感じたいのです。

・・・・・
 
見返りのない子育てを続けることは、
そもそも無理があります。
肉体的にも、精神的にもぼろぼろになる子育てです。
どこかで糸が切れてしまいます。
 
・・・・・
 
ツンデレな息子ではありますが、
今では私は息子からの愛を(少しは)感じることができますし、
やっと両思いになれたと思います。
だから、幸せに思えるのです。
 
・・・・・

タカマミー