2015年4月22日水曜日

育てたように子は育つ

今日、参観日に行ってきました。
支援学校中学部、初参観です。
ただ、行った時間帯がたまたま
国語と数学(算数)の時間帯。
担任の先生を囲んで、
四人の生徒が机を丸く寄せて、
それぞれがプリントをやっている、
支援学級でよく見られるような光景でした。

一生懸命コツコツやっているなぁと思ったら、
ものすごく簡単なプリントを渡されていて、
「だから嬉々としてやってるわけね」

まあまあ、別にどんなプリントでも、
一生懸命頑張ってたらいい。
きちんとやるべきことに向かっている姿勢が、母は嬉しい。
・・・・・
 
途中、学年主任の先生に声をかけられた。
中学部から入った生徒は、
それほど多くないので、
先生も気にされているのだろう。
 
「高見くんは、やっぱり障害の特性上、
たくさんこだわりを持っていますね。」
 
「お母さんも、いろいろご心配されているようですね。」

「月曜日、帰りは放課後ディの車に
乗って帰ることになっていたようですが、
高見くんは”(通学)バスに乗りたい”と
ものすごくはっきりと、何度も主張していました。」
 
「ですが、担任や私が説明をすると、
しっかり自分の主張をしながらも、
我々の話に耳を傾けてくれ、
何度かやりとりするうちに、
”じゃあ、仕方ないな”という表情で
折り合いをつけれくれました。」

「お母さん、彼はとても素晴らしい力を持っていますね。」
 
・・・・・
 
彼らのこだわりは、結構大変だ。
私達のこだわり方とは全然違う。
死ぬほど抵抗するし、
折れることができない。

彼らの感じ方は、我々とはずいぶん違うんだな、
と感じさせられることの一つでもある。
 
だけど、どれだけ泣いても叫んでも暴れても、
どこかで折り合いをつけなければ、
人と一緒に生きていくことは難しい。
 
・・・・・
 
私は、それに非常に長い時間を費やした。
身辺自立を教えたり、
遊びを教えたり、
読み書き計算を教えるよりも、
ずっとずっと長い時間を費やした。

どうやって教えるか。
どうやって上手になっていくのか。

日常生活でよく起こる、
彼のひっかかりに、
それは社会的に無理だと思うものに対しては、
絶対に親が折れないこと。

その1時間を大暴れして無駄に過ごしても、
その半日を大泣きして無駄に過ごしたとしても、
親が折れないと決めたことに対しては
覆さない。
やろうとしていたことが、全くできなくなっても。
 
親は怒ったりはしない。
ただ、淡々と「できないものはできない」という姿勢を崩さない。
彼の安全だけは確保しながら。
そうすると、
泣いても暴れても、
どこかで自分が折れなければ、
前に進まないことがあるということを、
経験する。

何度も何度も、
何百回、何千回経験しただろうか。
 
非常に長い時間はかかるが、
お母さんがボクの主張を聞き入れてくれるとき、
お母さんが絶対に駄目だというとき、
どちらもあるということを
彼は知る。

・・・・・
 
でもそれには、
お母さんにプイと横を向かれたくない、
そんな気持ちが育っていなければいけない。

お母さんとうまくやりたい。
だからこそ、
激しく悩んで、泣いて暴れて、
それでも結局お母さんの元に帰ってくる。

・・・・・
でも、彼らは、元々人への愛着というものがかなり薄い。
息子は、人への愛着は皆無だった。
だから、どちらも同時に育んでいかなければならなかった。
 
・・・・・
 
親子の愛着。

そして、
「ま、いいか。」と折り合いをつけること。

切っても切り離せないものでもあったと思う。

・・・・・
 
まだまだ、息子は折り合いをつけるのが下手だ。
それでも、半日を無駄にするようなことはもうない。

大暴れして、すべての手を止めてでも
彼の安全を守らなければならないほどではない。

しつこいことはしつこいけれど、
話し合いの中で
折り合いをつけられるようになってきたから。
身体も大きくなって、私を見下ろすようになったが、
彼に傷つけられるかもしれない、なんて
全く思わない。

絶対に、なんとか頑張って、
心の中で「ま、いいか」と言って
戻ってきてくれると思うから。

・・・・・
 
私は、学年主任の先生にこう言った。

「そのように、今まで育ててきました。」
・・・・・
 
息子の障害がわかってふさぎ込んでいる時、
義母が一応(?)彼女なりに心配して、私に本を送ってきてくれた。
『育てたように子は育つ』
その時は、無性に腹が立って、
泣いて怒った。
「こんなもの、送ってきて・・・どういうつもりなの」

その時は、なんとか育てたくても、育てようがなかった。
どうやって切り口を見つけて良いか全くわからなかった時だった。

でも、今は「そうかもな」と思う。
 
彼らの特性を知り、
工夫をし、また工夫を重ね、
どんなにうまくいかなくても諦めず、
継続し、さらに継続する。

とてつもなく気の遠くなる作業ではあるが、
でも、目指しているところは、
社会でそれなりに認められるような子供に躾けていきたい。
笑顔で、いろんなことを楽しんで過ごして欲しい。
穏やかで人から愛される子になって欲しい。
そして、我が子として愛したいし愛されたい。

そんな風に「育てたように子は育つ」のだ。

きっとそうだ。
・・・・・

タカマミー

2015年4月19日日曜日

目指すべきゴールとは

人を育てるとき、
その人にどんな風になって欲しいのか、
考えることがあるだろう。
 
職場であれば、新入社員や若手社員に対して、
家庭であれば、子供に対して、伴侶に対して。

・・・・・
 
どんな人も、
完璧な姿を期待したい、というところだろう。

ホウレンソウがきちんとできて、
素直で、
コミュニケーションもうまくとれ、
リーダーシップがあって、
専門知識もどんどん吸収していく人材。

勉強ができて、
スポーツができて、
明るく朗らかで
友達も多く、
親や先生からの評判も良い子供。

・・・・・

でも、人には個性もあるし、
得手不得手もある。
すべてが3割打者にはなれない。

でも、素晴らしい功績を残すような人が
全員幸せだとも限らない。

・・・・・

発達障害や知的障害の子供を育てていると、
特に幼児期、
発達指数(DQ)検査が行われる。

DQ≠IQだと考えていいだろう。
6才の子供の標準が100とした場合、
その子の発達が標準であれば100、
それより発達が進んでいれば110、
それより発達が遅れていれば60など
指数がでる。

発達指数が50であれば、
平均して6才の子供なら、3才ぐらいの発達と言えるだろう。
しかし、発達障害の子の場合、
発達の凸凹が非常に大きいので、
一概に、「○才ぐらいの知能」とは言えないところもある。
 
・・・・・
 
療育に一生懸命になればなるほど、
親も療育者も、
このDQに一喜一憂する。
 
「DQが上がった」
このフレーズに私は前から違和感を感じていた。

自分の子供がそういう体験ができなかったということもあるが、
そもそも上がるんだろうか?

私自身の考えでは、
NOである。

上がったのではなく、
正しく発揮できるようになった、
という表現が正しいのではないだろうか?

発達検査では、
質問されていることの意味がわかり、
正解がわかることも大切なのだが、
それ以前に、
「問われたことに忠実に答えようとする意思」
「すぐに行動しようとする意思」
「正しいことを答えたい気持ち」
「集中が継続できるかどうか」
「自分の考えが伝えられるかどうか」
がないと、
それに答えることができないからである。

療育が進んでいない子供達には、
こういった意思はあまりないことが多い。

だから、療育が進んで、
”社会的に、こういう時はこういう風に対応するんだな”
”座ってお勉強するときなんだな”
”ちょっとこの人の言うこと、聞いてみてもいいな”
そういう姿勢ができていったから、
答えられるようになっただけなのではないだろうか。

・・・・・

だから、「発達指数が上がった!」という声を聞くと、
そのお子さんをじっと観察してしまう。
元々理解力がありそうなお子さんだもんな、
という結論に至ることが多い。

・・・・・

発達指数が上がると言うことは、
理解できることが増え、
知識が増え、
人に従う力もついている、と言い換えることができると思う。

でも、発達指数があがることが目標なんだろうか?
私の答えはNOである。

・・・・・

人にはその人それぞれの目指すべきゴールがある。
というか、あるべきである。

でも、療育しないで(教育しないで)
子供(人)のありのままにさせておく
ということではない。

その子供(人)の特性を理解し、
苦手なところについては、
社会的に許される範囲まで引き上げる努力をする。
得意なところを一緒に見つけてあげ、
好きなことを一緒に見つけてあげ、
できることを増やしてあげる。

どんな風に生きていくのか、
社会で活躍していくのか、
そのイメージを一緒に作り、
それに向かって毎日を過ごしていけるように、
ぼんやりとした道筋を作っていってあげること。

それは、親や上司の押しつけであってはならない。
あくまで、本人の意向や
本人の特性に合っていて、
本人が幸せに感じるだろうゴールになるようにしなければならない。

そうすれば地に足がついた活動を
毎日地道にコツコツと送れるのではないだろうか。

・・・・・

私にとってそれが、
小さい頃2人で毎日取り組んだ行動療法(ABA)であったり、
その後さらに「社会性アップ」のために2人で取り組んだ遊びの数々であったり、
揉めながら続けた2人での調理であったり、
お手伝いであったり、
学習であったり、
繰り返しのフレーズで遊ぶ言葉遊びであったり、
学校の行き帰りの道であったり、
買い物へ二人で行くことであったり、
家で炬燵に入りながらダラダラ過ごす時間であったり、
すべてが、ゴールに行き着くための活動になっていった。

・・・・・

息子は今、中学一年生。
息子が3才の時に思い描いた未来と今。
一致はしていない。

思い描いた未来の姿が100であるとすれば、
今は30くらいかもしれない。

上方修正も下方修正もあってもいいじゃないか。
それはつきものじゃないだろうか。
軌道修正しながら、
努力してきた日々は、
いずれ、親子の納得へと行き着くんじゃないだろうか。

・・・・・

もし、突然息子が事故にあって死んでも、
私は後悔しないように生きようと思った。
そして、生きている。

未来を思い描きながら、
未来と向き合い、今と向き合いながら、
着実に毎日を生きてきたと思える。

これからどうなるのか、
まだ予測はつかないけれど、
これからも、そうやって生きていこうと思う。

・・・・・

そしてそれはどんな世界でも、共通だと思う。
「A社では仕事が合わなかったから、一生懸命になれなかった。」
そういう人が、B社で一生懸命になれるだろうか。

評価される域に達しなかったとしても、
一生懸命に努力したことは、
毎日に向き合ったことは、
その人の力となる。

そういう人は、きっとどこかで輝ける場所に出会えると思う。

若い女性の中で、一部で専業主婦指向が多少高まっているとも聞くが、
専業主婦は「何もしない人」ではない。
職場で評価されないし、やる気にならないから
専業主婦になったって、
いい主婦にはなれない。

結局、その人の人間としての生きる力や、何事にも向き合う姿勢が問われる。
育てる人も、育つ人も、
そんなことが問われているのではないだろうか。

・・・・・

どうお感じになりましたか?
是非感想をお聞かせください。

タカマミー

2015年4月15日水曜日

あればいいな、保険見直し本舗のような場所が。

 
自閉症という診断。
多くは児童相談所またはそれに準ずる施設で診断が下されます。

医師しか診断をすることができないので、
逆に言うとその判断ができる医師がいる病院でも診断できます。

・・・・・
 
その後のケアとは?
親がその事実を受け入れ、なんとか育てていこう
という気持ちになるように。
一番重視されているのは、まずそこだと感じました。
 
虐待が起こったり、家庭内不和が起こったり、
真っ先にそういう問題が起こりえるのが、
我々のような子供を持つ家庭ではないか、
と考えているからだと思います。
 
「お母さん、しんどいですよね」
「お母さん、よく頑張りましたね」
職員さんから、とにかくそんな言葉をかけられます。
 
・・・・・
 
児童相談所の併設施設に、
療育という名の親子通園の教室があることが多いのですが、
おそらく、内容はほぼ普通の保育のようです。
ただ、苦手なことが多すぎる子供達なので、
普通の保育のようにはことは進まないようです。

親子通園をしているので、
親もずっと一緒です。
時々、親だけで勉強会をしたりするようです。
そして、親同士で仲間になり、
一人じゃないんだ、という気持ちにさせること、
それも目的のような気がします。

・・・・・
 
その後、幼稚園の三年保育に入園する時期を境に、

親子通園+普通の幼稚園や保育園に平行通園する子供達と、
単独通園施設(子供だけで通う療育施設)に通園する子供達に
振り分けられていきます。

施設により、親によりいろんな考え方をする人がいるので、
一概にどっちがいいとか、
そういうことは考えたことがないです。
 
・・・・・
 
単独通園施設では、
トイレができない子がほとんどなので、
トイレトレーニングを開始したり、
しっかりご飯を食べられるようにしたり、
身体を使った遊びをしたり、
保育のようなことをします。
 
・・・・・
 
公的な受け皿は以上となります。
それで十分、と思う親もいれば、
もっともっと我が子に何かできるんじゃないかと思う親もいます。
でも、それ以上の情報は特に出てきません。
 
・・・・・
 
後はすべて自分の力です。
やるもやらないも、
お金をかけるもかけないも、
調べるも調べないも、
親次第。

そして、そんなに確かな情報はあふれていません。
何がいいのかもわかりません。
また、枠がいっぱいで空きがありません。
保険で受けられる訓練もありますが、
フリーで何かをしようとすると、
とても高額です。
 
・・・・・

例えば、
食べられる食材が3つしかない、それ以外受け付けない。
親の目を見ることがない。
何かを訴えてくることがない。
こちらの話している言葉の意味を全く理解しない。
意味のある発語がない。
洋服が着ていられなくて全部脱いでしまう。
そこらじゅうに落ちている物を食べてしまう。
ウンチをしたらおむつから取り出して、そこら中になすりつけてしまう。
トイレに溜まっている水で遊ぶ。
排尿・排便の感覚がない。
歩かせようとしても歩かない。
家に入ろうとしたら、コンクリートに頭を打ち付けて泣き叫ぶ。
スーパーでどこへ行くかわからない。

これが3才の我が子だったとしたら、どうしますか?

少しでも、何かを、どうにかしたい、
そして少しでも生活を楽にしたい、
そう思うのではないでしょうか。
でも、その術が見つからない。
何かを見つけても、それがいいのかどうかわからない。

・・・・・
 
そして、何となく一人の専門家に相談すると、
他の専門家に相談に行くことを嫌がられる傾向にあります。
「せっかく自分が相談にのっているのに」
という気持ちが伝わってきます。

・・・・・

そんな時、
所謂、単独の保険会社のセールスマンではなく、
保険見直し本舗のような
そんな場所があればいいんじゃないだろうか?
と思うのです。

・・・・・

たくさん種類を取りそろえた中で、

あなたのお子さんには、
こういう方に相談してみるのがいいんじゃないか?
こういう遊びを試してみてはどうか?
こんな場所があるけど、行ってみてはどうか?

のように、いろんなことを多角的に相談できる場所。

・・・・・

社会性を育むには、
こういうところを切り口にしたらいいそうですよ。
それにはこういう療育方法がありますよ。

運動が苦手なのでしたら、
こんな活動をやってみてはいかがでしょう。
それにはこういう療育方法もありますよ。
どういうことが苦手で、どういうことが得意なのか考えて整理してみましょう。
生活で、何が困っていますか?
まず何を克服していきたいと考えていますか?

こんなことをゆっくりと紐解きながら話せる人。
・・・・・

私は比較的、行動を起こそうとするタチなので、
なんとかしたくて、いろんなところに出向いたり、
自分自身でやってみたり、
またそれを方向転換してみたり、
また試してみたり、しました。

相談できる方も、一人ではなく、
複数持つことができました。

でも、本当にとても大変でした。
・・・・・

そんな場所や人、必要だと思いませんか?

私は思います。
そんな人が居てくれたら、どんなに心強かっただろうか、
そう思います。

・・・・・

でも、どれだけ専門家の門を叩いても、
どれだけお金を払っても、

結局は親が自ら切り開き、
行動し、
子供を導き、
周囲を理解者にする。

親の孤独な戦いです。

・・・・・

読んでいただき、ありがとうございました。

タカマミー


2015年4月12日日曜日

自閉症の紹介をします。

自閉症は、障害です。

自閉性の基本的特徴は、
以下の3つを主な特徴とする行動的症候群とされています。
 
①対人的相互反応の質的な障害
②意思伝達の著しい異常またはその発達の障害 
③活動と興味の範囲の著しい限局性
 
この3つの特徴を見ていただければお分かりになると思います。
私の言葉で説明をすると、
「○○のような行動・振る舞い・感じ方をする人」
というような基準なのです。
 
・・・・・

また、
自閉症スペクトラム(連続体)
と言われます。

例えば、特性のある人を、
特性のはっきり出ている順から並べてみたとして、
1~67を障害とみなし、
68~は健常とみなす、
というようなことです。

つまり、67と68の境目って、
かなり微妙な違いかもしれないんです。

だから、世の中には、特性を持っているけれども
特に障害と認定されずに生活しておられる方もいらっしゃいます。
よく、グレーゾーンの方、という表現をします。
 
ですから、
診断を下しにくい障害とも言えるのかもしれません。
 
 
・・・・・
 
自閉症は、病気ではなく障害ですので、
治癒することはありません。
また、生まれてから何かのきっかけで障害になる、
という類の物ではありません。

ですから、生まれたての赤ちゃんの時から、
何かの兆候を現していることが多いです。
 
・・・・・
また、一般の方にわかりづらいのが、
知的障害との関係です。

知的障害と自閉症とは、全く別の尺度です。
知的障害がないけれども、自閉症の特徴がある人。
知的障害があって、自閉症の特徴もある人。
ややこしいですね。
・・・・・

私の息子は、知的障害を伴う自閉症です。
知的障害も重いですし、
自閉症の特徴は、すべてにおいてしっかりと当てはまる、
完璧な自閉症だと思います。

ちなみに、
知的障害が重いことと、
自閉症の特徴がかなり濃いことと、
どちらが大変だと思うか?

私個人的には、
「自閉症の特徴」
が大変だと感じます。
・・・・・
 
そんな特徴を持っている子供です。
当然赤ちゃんの頃から、
非常に非常に育てにくい子でした。
(これも、子供によって千差万別のようですが)

でも、診断が下りるのは、
だいたい3才頃です。

3才まで、まさに地獄絵図です。
それ以降も地獄絵図でしたが。
でも、皆さん勝手な憶測でものが言えないので、
「そんな子もいますよ」
「お母さん、休んでね」
「大丈夫ですよ、元気なお子さんですよ」
いや、しかし・・・

こんな子は、周りに一人もいません。

そして、休めるわけがないです。

夜もほとんど泣いていて、親子ともに寝られてないし、
昼間も布団に寝かすことすらできず、抱っこしているしかないし、

歩けるようになれば、
パニック、癇癪、勝手にどこかにいく、
人とのトラブルを起こす、
など

普通の元気なお子さんな訳がないです。
本当に、そんな訳がないんです。
 
・・・・・
 
自閉症の特徴がしっかりあてはまる場合、
3才頃で診断が下されます。

親にとっては
「死刑宣告のようだった」
「もやもやしてけど、やっぱり何かあったんだ」
「ああやっぱり」
いろんなご意見を聞きますね。
私は、目の前が白黒になり血の気がひいていったのを覚えています。
その後、1ヶ月くらいは、絶望感で誰とも話したくありませんでした。
本当に誰とも。
どうやって育児をしていたのかも、わかりません。

・・・・・

でも、この診断を下された後からが、
また新たな戦いの始まりだと言えます。

長くなりますので、次回に書かせていただきます。

タカマミー
 


2015年4月10日金曜日

叱らない子育て・人育て

最初にどんなことを書こうか、
今日一日悩んだのですが、
いきなり脈略もなく書きたい話を書くことにします。
 
・・・・・
 
人を育てる。
どんなことをイメージしますか?

大人なら、
多くは職場での後輩の育成
または部下の育成
そんな場合が多いでしょう。
 
家庭なら、
やっぱり子育て
それに尽きるでしょう。

いや、夫育て、妻育て、
というカテゴリーもあるかもしれません。
 
・・・・・
 
人を育てるとき、
どんな風にやってみたいですか?
 
見本を示してやり、
褒めて育てる。
そんなイメージでしょうか。
 
それとも、ガンガン指導し、とにかく付いてこい、
体育会系もありでしょう。

職人さんの世界のように、
ただただ師匠を見て盗め、
そんな世界もあるでしょう。
 
・・・・・
 
でも、実際には
駄目なことをしたときは、
叱っていますよね。

私も、叱っています。
注意しています。
時には叱りすぎて泣かせることもあります。
子供に対しても、
大人に対しても過去にあります。
誰とは言いませんが。
・・・・・
 
先日、私が経験した話を書きます。
 
息子と私。
我々の活動は、県外にまで及び、
週のうち何度かは、県をまたいで移動します。
当然、片道1~1.5時間ほどの車移動になります。
 
私が運転席、息子が助手席。
狭い愛車で2人ごちゃごちゃ言いながらの時あり、
音楽を聴いている時あり、
おにぎりやら飴やら、食べながらの時あり。
高速にものります。
 
そんな息子の最近のブームは
車の窓を全開にすること。
真冬に始まったこのブームは、
とどまることを知らず、未だに絶賛好評中です。
 
一番は風の刺激を感じたいこと。
二番目はいろんな音を聴きたいこと。
彼は結構激しい刺激が好みです。
・・・・・

そこでまず、
「窓開けていい?」
この言葉で私に許可を求めてから開ける、
その練習をしました。

所謂本人にマンド(要求)があったときに、
アイコンタクトとその言葉を言うことで練習する、
これは幼い頃からの我々母子の基本のやり方です。
そうやって、使える言葉を増やしてきました。
そして、数ヶ月で習得していきました。
 
・・・・・
 
すると次は、
その窓から顔を出したい要求が強まってきました。
もっともっと風を感じたくなったんでしょう。

決して、無茶苦茶な顔の出し方をするわけではないけれど、
放っておいたらエスカレートしていくだろうことも、
この要求は止めておくべきだということも、
すぐに判断できました。

彼には、
「ちょっとぐらいなら良い」という基準は、
非常に判りづらいからです。

止めさせるなら、すぐに判断して止めさせなければ、
止めることができなくなるからです。

誰だって、楽しいことは止めたくない。
最初は許してくれてたやん?ってイメージも
なかなか抜けませんから。

・・・・・
 
最初は顔を出す度に
肩を叩いて、「やめなさい」
と注意しました。
すると息子はすぐに止めました。

でもやっぱり楽しかった。
1分もしないうちに、
また顔を出します。
「やめなさい」
すると息子はすぐに座り直します。

でも、やっぱりやっぱり楽しかった。
「やめなさい、言うてるでしょ!」
「・・・ごめんなさい。」
「お母さん、何回も言うてるよ?」
「・・・顔出すの、バツ!」

息子だって一応わかってはいるんです。
だけど、自分の衝動をとめられるほど、
彼は精神的に成熟していません。

・・・・・

一週間ほど経過しました。

状況は相変わらずです。

これは、駄目だな。

クセになる前に、作戦変更。

・・・・・

2人で車に乗っています。
「・・・窓、開けていい?」

「うん、いいよ。でも顔出したら、おしまい、にするからね。」

「・・・わかった。」

1分後、息子は顔を出します。
メチャクチャ嬉しそうな顔をして。

「はい、おしまい。顔出したからね。」
 
1分後、
「・・・窓、開けていい?」
「駄目、おしまいにするって言ったからね。」
さらに1分後、
「・・・窓、開けていい?」
「駄目、おしまいにするって言ったからね。」
延々と続くわけです。
だけど、1ドライブ1チャンスに決めたので、
母は譲りません。

・・・・・
 
用事が終わって帰り道、
「・・・窓、開けていい?」

「うん、いいよ。でも顔出したら、おしまい、にするからね。」

「・・・わかった。」

1分後、息子は顔を出します。
メチャクチャ嬉しそうな顔をして。

「はい、おしまい。顔出したからね。」
 
1分後、
「・・・窓、開けていい?」
「駄目、おしまいにするって言ったからね。」
さらに1分後、
「・・・窓、開けていい?」
「駄目、おしまいにするって言ったからね。」
延々と続きます。
 
・・・・・
 
1ドライブ1チャンス方式を始めて4回目くらいになると、
息子は因果関係を掴んできます。
パブロフの犬の逆バージョンみたいな感じですね。

それでも、やっぱり顔をだしてしまってアウト。
そんな簡単に、衝動は止められませんから。

・・・・・
ドライブ6回目くらいでしょうか。
 
「うん、いいよ。でも顔出したら、おしまい、にするからね。」
 
と言ったのに、また顔を出した直後、

”まずい、思わずやっちゃった”

という表情で、私を振り返りました。

「はい、おしまーい」
冷静に言いましたが、これはなかなか手応えあるぞ!?
と心の中でほくそ笑みました。

・・・・・

ドライブ7回目。
6回目が往き道で、7回目が帰り道という絶好のチャンス。

結果は、一度も顔を出しませんでした。
一時間、一度も。
 
ドライブ8回目も、9回目も、
風をビュービュー感じながら、
つつがなくドライブを終えました。

・・・・・

1ドライブ1チャンス方式は、
彼から快を取り去るという、一種の罰であったと思います。

彼には、これが効果的でした。

「ものすごーく風を感じることは楽しいけど、
それより、それなりの風をずっとずっと楽しめる方が、
おトク!」
 
・・・・・
 
結果的には、叱らなくても、
自分がどう行動したらいいのかを知り、
自制することを学んでくれました。

本当の意味を理解しているわけではありません。
「怪我するかもしれないから」
なんて仮定の話をしたって、
イメージできませんから。

でも、それでいいと私は思います。
数々の問題行動を起こしがちな彼は、
下手すると、一日中怒られている羽目になります。
 
別に人を困らせる気なんかないんだけど、
思いつくままに行動したら、
必ず叱られしまう。
そんな行動をしてしまう子です。
 
・・・・・
 
ちょっとした目先を変えることで、
行動が変わることがある。

いつもいつも成功するとも限らない。
失敗したり失敗したり失敗したり・・・
時々成功したり。

叱ることもあってもいいと思う。
だけど、叱ることで効果がなかったら、
その方法は止めた方がいいということではないだろうか。

いろんな方法を試してみたらいい。
思いつかなかったら、
口調を変えてみてもいい。
表情を変えるだけでもいい。

問題でないことをしていたときに、
十分強化(褒めて)あげたっていい。

・・・・・

「何をしても変わらない」
「手の施しようがない」

相手が理解できないことがあったら、
自分の説明の仕方が悪かったんだと思ったらいい。

相手が問題行動を止めなかったら、
自分の行動を変えなかったからだと思ったらいい。

それでも無理だったら、
できるようになる時期を待ったらいい。
再チャレンジしたらいい。

・・・・・

人は変わる。

根本は変わらなくても、
ちょっとずつちょっとずつ鋭い角が
いびつな形が
丸みを帯びて
上を歩いたら、ちょっと痛いような、痛くないような
ころんとした海岸の石のように、
だんだんなっていってくれたらいいと思う。

急には変わらない。
でも、人は変わる
と私は思う。

・・・・・
書きたかったことが書けました。
ありがとうございました。

タカマミー

2015年4月9日木曜日

はじめまして、タカマミーです(復旧版)

 
はじめまして、タカマミーと言います。
京都府在住、男児の母です。
 
私の一人息子は、中学一年生。
自閉症と重度知的障害を持つ典型的な自閉っ子です。

・・・・・

この4月、息子は地元の学校ではなく、
総合支援学校の中学部に入学します。
明日が入学式。新しい生活の始まりです。
息子も私もちょっと不安です。
 
・・・・・
 
時を同じくして、夫は熊本へ住居を移しました。
会社から新しい役割を与えられ、
その職場が熊本だからです。
夫もちょっとは不安なのでしょうが、
新しい仕事にワクワクしながら、
久しぶりの一人暮らしにも結構ワクワクしています。

・・・・・
私は、この春からやりたいことがあり、
エントリーはしてみたものの叶わず、
とりあえず現状維持。
 
息子や夫の新しい生活をサポートしつつ、
京都での息子との二人暮らしの環境を整えて、
今後のことを模索していこうと考えているところです。
 
・・・・・

私がブログを始めた理由。
 
一つは、Facebookに綴るいろんな私の思いに触れ、
共感してくださる方や、
楽しみにしてくださる方、
勉強になると言ってくださる方が少なからずおられること。
 
もう一つは、私自身の可能性のため。
 
自分が味わった、子育て初期の違和感と大変さ、
告知後の絶望感とやりきれなさ、
その後の頼りどころのない不安な気持ち、
治ることのない厄介な障害との戦い、
そして預け先もないしんどさ、
自分の病。
 
そこから約10年かかって見えてきたもの、
これは、きっと何かの役に立つんじゃないかと感じました。
 
困っているお子さんや、その親御さん達にとって、
少しでも何かの役に立つことがしたいと思うようになりました。

・・・・・

10年間でいろんな専門家の方と出会いました。
関係者の方とも出会いました。
教師とも出会いました。
 
「大学院に行って、資格とって、私と同じ仕事やらない?
きっと素晴らしい専門家になれるよ!」
と、臨床心理士さんに。
 
「支援学校の先生にならない?
即戦力だよ」
と、教師に。
 
「他のお子さんへのセラピーしない?
息子さんにやった時のように。」
と、とある療育のセラピストさんに。
 
「一緒に働いてくれませんか?
そして我々にも教えてもらえませんか?」
と、福祉施設の方に。
 
こんなお誘いもいただきました。
 
まあ、言うのはタダなのでね!
 
・・・・・

有資格者だから。
教師だから。
ベテランだから。
親だから。
すべてがわかる訳じゃない。
 
逆に、全部わかる必要もない。
 
だけど、
誰かが軸になって、
一人の子供の状態を見て、
プランを立てて、
必要なことを必要な場所で、
練習したり経験したりできるように、
プランニングしていくことが出来る人がいれば。
 
それが親であれば、私であれば。
そう思ったのです。

・・・・・

私は、プレイヤーでもあり、
マネージャーでもあり、
プロデューサーでもある。
今はそう思います。
 
・・・・・

世の中に困っている子供達や親御さん、
また成人された当事者の方達がおられます。
 
少しでもお子さんが小さいうちに、
親の軸が固まっていれば。
 
少しでもお子さんが小さいうちに、
いろんな経験ができれば。
 
少しでもお子さんが小さいうちに、
社会性を育むスタートが切れれば。
 
同じ人間は2人居ないので、
”たられば”の話はしづらいですが、
少しでも生きづらさを軽減してあげることができ、
楽しく毎日を過ごす手助けがしてあげられると思います。

・・・・・

こんな感じで今日は締めくくります。

今後とも、よろしくお願いいたします。
 
タカマミー

申し訳ありません

せっかく見ていただいた皆様
 
息子に初投稿を消されてしまったようです。
 
復旧しようとしましたが、
 
無理でした。
 
思い出せるかどうかわかりませんが、
 
今晩、もう一度思い出して
 
綴ってみたいと思います。
 
これからもどうぞよろしくお願い致します。
 
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それでは気を取り直して、
 
入学式に行ってきまーす!!
 
もう相当怒った後ですが。
 
息子、何を怒られているのかわからなくてシュンとなってますが・・・