2015年12月11日金曜日

目に見える、という支援

子供が、
何かをやらないといけない時にふざけてしまったり、
さぼっていたりすると、
つい怒りたくなります。
「何やってるの?ちゃんとやりなさい」

でも、わからなくて「ふざけ」や「さぼり」という
行動につながっていたとしたら?

それ実は、怒る場面ではないんですよね。
教えてあげる場面なんです。

でも、子供って、
特に何らかの少しでも難しさを抱えている子供にとって、
「わからないんだけど」
「どういうこと?」
って伝えることができない難しさもあったりします。

でも、大人から見ると、
「当然わかっているに違いない」
「そんなこと、普通わかるだろう」
っていうようなことだったりするので、
両者の溝はなかなか埋まりません。

・・・・・
 
小学校の掃除の時間。
全員にそれぞれの割り当てがあって、
掃除の時間になったら、担当場所に行って掃除をすることになっています。
しかし、教師が全部の場面を見ているわけにもいかないので、
ある程度児童たちにまかせていることも多いです。

低学年の場合、
特に教室の掃き掃除がなかなか進みません。
したがって、教師が掃き掃除を一緒にしていることが多いようです。
そうしないと、仕上がらないのです。
・・・・・

そんな現場を1ヶ月ほど見てきたある週、
4人の児童がその週の教室の掃き掃除の割り当てとなりました。
今まで見てきた中でも、この4人、特に進みませんでした。
一人の児童と、教師しか、掃き掃除がまともにできる人がいなかったのです。

「ちゃんとやりなさい」そう言って、一人ずつ付き添って促してみた日。

ほうきの持ち方がおかしいため、持ち方を指導した日。

促せばやるものの、片方にゴミを掃いていくことができず、
ゴミが右に行ったり左に行ったりするので、向きを指導した日。

どのエリアをどっち向きに掃くか指導した日。
そして・・・
少し上手にはなったものの、まだまだ掃除にはならない。
そもそも、どこからどこに掃いているのか、全く見えてこない彼ら。

最終日、
「はい、ではこの紙を、机の方に向かって掃いてください!」
そういって、裏紙をちぎり撒き始めた私。

結果、4人ともせっせと後ろに向かって掃き、児童4人でゴミを集めることができました。
誰もふざけなかったし、誰もさぼらなかった。
最後まで全員で頑張ってやり遂げてくれました。
私は裏紙を持っていただけです!
・・・・・
 
実はこれ、私の最終手段として出そうとしていた秘策でした。
彼らがどれくらいの支援でできるのか、確認したかったのです。
よほどゴミだらけだったり、落ち葉でいっぱいだったりすれば、
掃いた場所と掃いていない場所ってわかるのですが、
なんとなく汚れている部屋って、どこを掃いて良いかわからないのです。

普通わかるだろう、って思うんですが、
「少し難しさを持っている子供」にとって、
”このあたりは掃いたし、あとはもうちょっと右を掃けばいいか”なんてことは
非常に難しいことなんです。
わからないから、やれないから、なんとなくダラダラしてしまう。
我が息子も、
「掃除機をかけて」
「この辺を掃いて」
はまだできません。

しかし、
「このテーブルを拭いて」
「浴槽の中をスポンジでこすって」
「お塩が床にこぼれたから、掃除機で吸って」
なら、とても上手にやり遂げられます。
 
自分が手を施したエリアと、そうでないエリアがしっかりわかることで、
もれなくやり通すことができるからです。

・・・・・
 
小学校の話に戻ります。
しかし、まだ小学生です。
途中から、
「先生、紙吹雪もっとやって~!」と、
違う盛り上がり方をし始めました。
そういうことじゃないんだけど(笑)

でも、目に見える支援をしたことと、
ちょっとした楽しい雰囲気にすることで、
彼らが嬉々として目的を達成できるなら、
まあいいのではないでしょうか。

いつか、そんな支援がなくても、
教室の前から、後ろに向かって、
紙吹雪を前から後ろに掃いていったように、
そのイメージをしっかり作ってからできるようになったら、
そう、最終的にできるようになったらいいんじゃないのかな。
 
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紙吹雪が流行りだしたら、また厄介だ。

でも、しっかりお仕事をすることができる君たちは、
とっても素敵だよ。
 
・・・・・
 
タカマミー

2015年12月9日水曜日

手帳の更新

障害者手帳というと、「身体障害者手帳」が一般的でしょうか。
入館料が発生するような場所でも、「身体障害者手帳をお持ちの方は・・・」という記載がある場所もありますね。
 
私の息子は、「療育手帳」を所持しています。
療育手帳とは、知的障害を持っている人に発行される手帳です。
 
ちなみに息子は、知的障害(重度)だけでなく、自閉症(発達障害)もあります。
自閉症(発達障害)に対しては、明確な福祉制度が整っておらず、
厳密に言うと自閉症(発達障害)に対しての福祉手帳はないのが現状です。
いつか、発達障害者手帳なるものができる日が来るのでは、とも思います。
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手帳は、状態が変化することもあるので、更新が必要であり、
更新時期になると発達テストを受けることになっています。
更新の間隔は、その人の年齢や状態によって様々です。
年齢が小さいと、伸びる可能性があるので頻繁ですし、
軽度になればなるほど、伸びる可能性も捨てきれないので頻繁です。
福祉の対象になるかならないかの瀬戸際の方もおられますからね。

逆に、年齢が大きくなると振れ幅が少ないと考えられているのでしょう。
また、重度になればなるほど急激な変化が少ないと考えられているのでしょう。
頻度が少なくなります。
なんとなく、悲しいような便利なような。
 
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息子は、既に頻度は少なくなっています。
前回受けた発達テストは4年前だったそうです。
そして今日、4年ぶりに発達テストを受けました。
 
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4年前というと、小学校3年生の冬。
心理士さんに連れられて、息子は個室に消えていった。
「待合室でお待ち下さい」と言われて、私はソファに座っていた。
でも、ワーとかギャーとか時々聞こえてくるし、
面白くもない、正解も言ってもらえない、褒めてももらえないテストに
素直に応じるとも思えないので、
どうなっているんだろうと、入り口のドアをじっと見つめていた記憶がある。
 
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そして4年後。
心理士さんに「5番のお部屋です。」と言われて、そそくさと5番の部屋に入っていく息子。
「お母さん、外で待ってるから~」と後ろから声をかけたが、聞いているのか聞いていないのか。
4年前とは違い、場所も建物も変わってしまい、初めて入ったビルの片隅で、
私はソファに座って待った。
 
後から来た軽度らしき子供の親は
「1時間半くらいかかりますので、またお迎えに来てください」と説明されているのが聞こえた。

そうか、軽度の子は、テストが進むから時間も長いのか。
うちは、せいぜい30分くらいかな?
 
静かな廊下のソファで、ウトウトして待つこと30分。

「お母さん、終わりました。お部屋でご説明します。」
と声をかけられた。
 
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結果を説明していただいた。

数の概念はあるが、抽象的な量の概念がわからない様子。
見た目でわかる表情は理解できるが、抽象的な感情の概念はわからない様子。
平面はわかるが、立体になると難しい。
目の前に見本があればできるが、記憶して再現することは難しい。
言葉だけの説明では、理解できないことも多く、悩んでしまう。

かなり妥当な結果だった。
数値も妥当だと思った。

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「それで、最後まで指示に従って、やりきれましたか?」
私にはそこが気にかかっていた。

「はい。切り替えが難しくても、説明して見せて待てば、きちんと応じられました。
最後までしっかり座って、与えられたことをやり通す姿勢がありました。
テストはスムーズにできました。」
とおっしゃった。
 
「多分、4年前は理解を確かめるという本来の目的以前に、テストをし続けることが難しかったんですよね?」
と続けておっしゃった。

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今回、しっかり応じられたとしても、知的な能力が伸びているとは言えない結果だった。
でも、私には「しっかり応じられた」ことがとても嬉しかった。
それが彼には必要だと思っていたし、なんとかそうなって欲しいと思っていたから。
知的な能力を無理矢理なんとかしようと思っても難しいところがあるが、
物事に対する姿勢は作っていけると思った。
テスト中、心配で心配でドアを凝視していた4年前の私。
ソファで居眠りして待っていた、今日の私。
 
それだけ考えても、この4年で息子は安定したんだなと感じる。
「きっと、やれるだろう。そこそこ応じてやっているだろう。」と思えたもの。
知的な能力は仕方ないにしても、なんとなくまとまってきたもの。
そういう話を心理士さんにした。
 
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前回のテストは記録からしか読み取ることができませんが、
大きく変わられたんでしょうね。
発達指数という数値では、同じような結果であっても、
数値ではない、情緒の安定や姿勢が最終的には生きていくのに大切な部分になります。
日々の一貫した周りからの支援や関わり、積み重ねで、
人はそんなにも変わるのか、という思いです。
きっと、彼の大きな財産になっていくと思います。

そう、心理士さんはおっしゃった。

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初めての場所で、初めての人と、
「今日はテストだよ」と言われて「テスト?」と意味がわからなかった息子。

だけど、なんかこの部屋のこの倚子に座って、
このお姉さんの出される課題に答えていったらいいみたいだ。
時々「これ最後までやりたいのに」って思うのに、もうおしまいって言われたりするけど、
仕方ない、このつみきは返して、次の課題をやればいいんだね。
いつになったら終わるかな?
まあでも、座っていてやることがないのは困ってしまうけど、
次々やることが出てくるし、
わからないこともいっぱいあるけど、
わかることはできると楽しいよね。
多分、お母さんは外で待っていてくれるんだろう。
家に帰ったら、何しようかな?
 
そんな気持ちだったんじゃないだろうか。

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何ができたわけでも、何かが変わったわけでもないんだけど、
そして結果はそのままではあったんだけど、
なんだか、良かったな。
なんだか、ホッとしたな。

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タカマミー

2015年12月6日日曜日

はじめの一歩(時間を気にする課題)

現在中一の息子。
小学校6年生で、なんとか時計から時刻を読み取れるところまでこぎ着けた。

普通の子供は、
時計が読めるようになると、
それを生活の中で活かしていけるようになるのが普通だ。
時計がどういうものかわかっていて、
針が進んでいくこともわかっていて、
みんなが時間に合わせて生活していることをなんとなく知っているから。
しかし、息子のようなタイプの子供にとって、
時計が読めることと、
時計の意味が分かることとは全く別物だ。
多分、今でも朝のバスの時刻が毎日一定だなんて、
知らないはずだ。

言って聞かせたところで意味がわからない。
本人が理解する土壌ができるまで、お預けである。
・・・・・

6年生で時刻を読み取れるようになったとき、
私は、次の課題を設定した。
それは、
「○時になったら、お出かけしよう!」
「○時になったら、晩ご飯だ!」
そうやって、本人のモチベーションが高い活動で、
本人が時計を見て「あ、○時になった!」と気付くことができる。
そして、「○時になったよ。」と知らせることができる。
ということだ。
・・・・・

しかし、この課題はなかなか進まなかった。
モチベーションの高いことは、
今すぐにでもしたいし、
イライラしてしまう。
そのイライラが勝ってしまうので、
時計を気にするどころではなかった。

結局、時計と同時にタイマーでカウントダウンしなければ、
見通しがつかないので、イライラして大変なことになってしまった。
そうすると、結局タイマーしか見ていないという結果になる。

・・・・・
 
今日は、一日母子2人で過ごす暇な日であった。
午前中は散髪に行って、
その後大好きなお店に行ってランチをしよう、
という予定を2人で立てた。

そして帰宅したら、お昼の1時。
家に入ったけれど、すぐ
「お出かけしたい。車乗ってたこ焼き買いに行く。」
と言い出した。

正直、私も平日の疲れが取れていないし、
添削の仕事もMAXでやってきているのに何もできていないし、
どちらかをしなければ、という焦りもあった。

「じゃあ、2時になったらお出かけしよう。それまで自由時間。」
息子はそこそこ納得して、パソコンで遊び始めた。

同じ部屋で私も仕事をやり始める。
あーちょっと疲れた、横になろうとウトウトしていたら、

「お母さん、2時7分なった!」
と息子に告げられた。

時計をずっと見ていた訳ではないようだが、
それでも2時になったら出掛けられる、
時計を見たら2時を過ぎている、
ということが読み取れたようだ。

「よしよし、じゃあ車でお出かけに行こう!」

・・・・・

仕事で関わらせてもらっている高学年の児童。
担任の先生からは、
「時間を守ることができず、遅れてしまうので、
時間を守るように教えて下さい。」
と言われた。

「時間を気にかけられるように、何かされていることはありますか?」と尋ねたところ、

・このプリントは○時までにやりなさい。
・給食は、○時までに食べなさい。
と時計を近くに置いて指導してきた、とのこと。

そう、学校などの「ねばならない」場所だと、
結局こういう風にしか伝えられないのだ。
子供にとっては、時間を守ったところで特に良い結果も返ってくるわけでもない。

みんなと同じように遅れずできた!
恥ずかしくなかった!
そういう気持ちがしっかり芽生えていれば、効果はあると思う。
が、そうでなかった場合、効果があるだろうか?
私はないと思う。

・・・・・

息子も、いずれ約束の時間までに~をする、などという行動が取れると良いなと考えている。
今はまだ、時間を気にする活動は始まったばかり。
とりあえず、はじめの一歩は踏み出せた日になった。
のんびり母子で過ごすのも、悪くないかも。
いい日になったな♪

・・・・・

タカマミー