2015年10月22日木曜日

自己刺激行動

自閉症児にありがちな行動。
「自己刺激行動」

原始的な遊びとでも言ったら良いんだろうか。

手をひらひらさせる
くるくる回る
玩具の車の車輪が回っているのを見る
ヒモを振る
本をペラペラめくる感触を楽しむ

と言ったような、
いわば感覚を刺激する遊びのようなもの。
自分の覚醒を保つようにと、ついついやってしまう行動。
貧乏揺すりも一種の自己刺激行動なのです。
 
・・・・・

「自己刺激行動」は長く続けさせないでください。
「自己刺激行動」は止めさせてください。
そういう療育の指導者が言われていたんですが、と、ある方に聞いた。
 
・・・・・

え、そうかなぁ。
じゃあ、他にやることがあれば、やりたいことがあれば
そっちをやるだろうけど、
ないから自己刺激にふけってるんじゃないの。
他に何をしろと?
止めさせられても、困るんじゃないかなぁ?

・・・・・

自己刺激行動を止めさせることは、
さらに別の自己刺激行動を生み出すか、
問題行動を生み出すかになりはしないか?
そう感じるのです。

止めさせるというところで終わりではなく、
違う行動に移れるように促してあげるなら良いと思うのだが。
 
・・・・・
 
あるお子さんのケース。

「扇風機が回っているのをじっと見たり、そういうことはしますか?」
とお母様にお聞きしたとき、
「いや、そんなにしないと思うのですが・・・」
と答えられていた。

しかし、私は見た。
数字の型はめパズルをしていたとき、
「+」と「×」のパズルの時だけ、すぐに型にはめず、
両手で一生懸命パズルを回して、じっと見ていたのを。

目の刺激、欲しいんだろうな・・・

お母様にそう伝えた。
「そうですか。そういえばぐるぐる回る物、意外と好きなのかも・・・」
と仰った。

そしてその後私は続けた。
 
・・・・・
 
別にいいんじゃないですか、自己刺激。
そういう刺激が好きなら好きで。
それを遊びに活かしてあげればいいんじゃないですか?
風車を作って、ふぅって吹いて見る、みたいな。
そうしたら、「+」をくるくる回してじっと見るのも好きだし、
風車が回るのも好きだし、
他に回るものを見る遊びが好きになるかもしれない。
自分で回してみたいって思うかもしれない。

そうやって、好きな感覚を見つけて、
遊びを増やしていってあげればいいんだって考えてみたらどう?
自己刺激にふけりたいときは、きっと彼が落ち着きたいとき。
ふけらせてあげてもいいような気がしますよ。
その代わり、遊びを増やしてあげる活動も地道にやっていこうね。
 
お母様は、とても深く頷かれた。

そして、早速風車を作ろうと仰っていた。
 
・・・・・

うちの息子、
未だに外では、羽生くんの氷上での回転のように、超高速自力回転しています。
突然走りたくなって、全速力で走っています。
爪噛みもします。

小さいときは、他にもいろいろな行動がありました。
電車の玩具を横目でずっと見ていたり(これ、非常にありがちな行動です)
顔をしかめることで細目にして物を見たり、
雑誌をひたすら落としていたり、
ボトルをひたすら出して並べていたり・・・

このような、傍目にはよくわからない行動も、
その刺激の要素を遊びに取り入れていけば、遊びの数も増えます。
そして、本人もやることが増え、満足です。
感覚の刺激も得られ、満足です。
笑顔の子どもを見て、母も満足です。

そうやって、少ない活動のレパートリーを増やしていく。
禁止するのではなく、活かす。

・・・・・

そんなにタカマミー先生のようにアイディアが湧きません・・・
とよく言われますが、
私も最初からアイディアマンだった訳ではないのです。
観察を重ねて、分かるようになったのです。
努力して、アイディアが湧くようになったと思うのです。

・・・・・

彼らを観察して、彼らの行動の意味や、本当の気持ちを理解できたら、
それはそれは充実感を得られますし、爽快です。
そして、そんな彼らに寄り添いたいと思います。
そんな活動が、私は結構好きです。

・・・・・

タカマミー

2015年10月21日水曜日

曖昧であること・はっきり言わないこと

母親と、初めて対等に喧嘩をした。
というより、私が一方的に怒ってしまったという方が正しい。

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私は自分の母親が好きだった。
私が結婚してから家を離れてからも、
息子のことで私が病気になり動けなかったとき、
息子とのお出かけが難しかったとき、
いつも助けてくれた恩人でもある。
母がいなければ、今の安泰な生活はなかったと言って良い。

母はとてもしっかりしているのだが(と思っていたのだが)、
自分が厳格すぎる家で育ったこと、
介護をしなくてはならず、結果働いたことがなく、あまりにも世間を知らないということ、
そして曖昧さが美徳とされる世代なのか地域なのか、
はっきり物を言わないということ。

そして老化もあるのか、
きっと私(タカマミー)がなんとかしてくれるんじゃないかというような
精神的な依存も感じる。

まあまあ、父のことはあてににできないのも可哀想だし、
お世話になった母だし仕方がない。
そう思って優しく付き合ってきたつもりだった。

・・・・・

しかし、あることをきっかけに私の中で何かが爆発してしまった。
そんなに怒る事じゃないでしょ、と母は最初思っていたと思う。

・・・・・

私は怒りのために、普段は思い出してもみないようなことを急に思い出した。
中学生の頃に感じた、理不尽に思えた出来事。
大したことではなかったんだが、一方的に私が悪いと怒られた出来事。
当時はまだ子どもだったし、いろんな想いはあったが、大人に勝てるわけがない。
ちゃんとやっているのに何故と思いながら、謝るしかなかった出来事。

でも、私は息子を育てていく過程で、本当にいろんなことを学んだ。
相手がどんな人であっても、しっかりと伝えなければ、相手にはわからない。
伝えようとする努力をしないのに、何故わからないのだと怒る権利はないのだ。
思っているだけでは駄目なんだ。行動しなければわからないんだ。
やっぱり私は間違っていなかった。
子どもだと思って、ちゃんと説明しなかった母が悪かったんだ。

そういうことを、これまでにも時々思い出していたことに気付いた。

・・・・・

私は思春期に、きちんと反抗期を通過することができなかったと感じている。
それは、私が元々「まあまあ聞き分けの良い、まあまあお利口な子」であり、
自由な兄に手を焼いている母を見て余計に「私は親をわずらわせまい」と思っていたこと。

そして、いろんなことをやらせてくれて、愛情かけて育てたいと思っていた母から、
彼女の根底にある「自分が子どもの頃経験した、厳格な子育て」が見え隠れした。
有無を言わせない何かがあったのだ。

それでも、一生懸命やってくれたし、私にもいろいろなサポートをしてくれたと思っている。
それでも、何かモヤモヤしたものがあった。

・・・・・

社会人になってから、なんだか息苦しいなぁと感じて、
かなり喧嘩をしたなぁという記憶もある。
あれが、私の遅く訪れた反抗期だったのかもしれないと感じる。

・・・・・

そして今、母の表現する「曖昧さ」が気になって仕方がないと感じるようになった。

また、母が私を怒らせたにも関わらず、すぐにフォローしようとしないことにも腹が立った。
「時間を置いた方が良いと思った」
いや、違うやろ?連絡するのが怖かったんでしょ?
きっと、私(タカマミー)からなんとかしてきてくれると思ってたんでしょ?
そう思えて仕方がない。
私の息子のことでたくさん力を貸してくれ、可愛がってくれているのに、
いざ親戚の前に、彼女の知り合いの前に、息子を連れて行こうとすると、ものすごい拒否をする。
ああ、彼女の周りの人には、孫が普通ではない可哀想な子どもだということを、きっと知られたくないんだと感じる。

・・・・・

曖昧にしておくことは美徳なんだろうか?

のんびり時間を置いておくことで、何か解決するんだろうか?

思ってたけどしなかった、で真剣さが伝わるんだろうか?

・・・・・

今の私の考え方は真逆だ。
伝えたいと思うことは、きちんと言葉にして伝えなければ伝わらない。
物事にはタイミングがある。
放っておいて勝手に解決するものなんてない。
思ってた考えてたは、自分の中だけのことであって人にはわからない。

母は、いつも前向きに進んでいく私を、周りからだんだん信頼を得ていく私を、
「すごいね、頑張ってるものね。」と応援してくれているのも知っている。
でも、何かで関わったとき、スピード感や考え方の違いに、
母はとまどい、中途半端に頼ろうとし、
娘はいらだち、はっきりさせようとする。

・・・・・

老いるとだんだんそうなる、と考えないといけないのか。

親にはいつまでもしっかりしていて欲しいと思う、娘の勝手なエゴなのか。

私は人に完璧を求めすぎているのか。

親が曖昧にしていることのツケが、自分に回ってくることをただ恐れているのか。
 
自問自答の日々を過ごしている。
 
・・・・・
 
タカマミー
 
 

2015年10月14日水曜日

「want to」そして「must」

学齢期に入った子どもの親御さんから、
「言うことを聞かない。やらないといけないことをさっさとできない。」
そんなことを時々聞く。

何故やらないのか?
やり方がわからないのか。
やる気持ちになれないのか。
多分後者だろう。

せっぱ詰まればやるのか?
それとも、少し見守ってやればしようとするのか?
一緒に手伝ってやればするのか?
頑としてやらないのか。
さてどれなんだろう。
(この事柄については、別途お話させていただこうと考えている)

・・・・・

私はお子さんに物事をやろう、行動しようとする気持ちを育てるのは、
幼いうちに「want to=したい」事柄で育てるといいのかもな、と感じている。

発達障害の幼児期のお子さんを観察していると、
中には「どのように遊んでいいのかわからなくて」ただウロウロしているお子さんもいることに気付く。
そういうお子さんには、「こんな遊び、いかがですか?お好みに合うんじゃないでしょうか?」と積極的に紹介もしていくことをお勧めしている。

それがお子さんにとってマッチする遊びだと、最終的には「want to=したい」遊びに変化していくからだ。
導入部分はどんな形でもいい、「わあ、楽しいなぁ。」「もっとやりたいなぁ」「昨日のあれ、もう一回やろうよ」そんな気持ちがしっかり育つことが大切だと思う。

そんな経験をたくさん積んだお子さんは、
能動的に物事をしようとしていくようになる、と感じる。

元々受動的なお子さんであっても、そこそこ能動的な方向には向いていくと感じる。

・・・・・

そんな経験をたくさん積んで、何かで遊んだり、集中したり、考えたり、人と関わったりすることが楽しい、そんな感情がしっかりとできあがる。
そうすれば、「must=ねばならない」事柄でもある程度、うまくやれるようになると感じる。

・・・・・

世の中には、「must=ねばならない」事柄はたくさんある。
十分、能動的に遊ぶ体験をして、主体的に遊ぼうとした経験がないのに、いきなり「must=ねばならない」を突きつけられたら、きっと誰だってできないだろう。

学齢期に「主体的に動けなくて」躓いているお子さんは、
もしかしたら、もう一回「want to=したい」から再スタートした方が、
実は近道なんじゃないかと感じている。

だって、その後思春期もやってくるんです。
発達障害や知的障害のある子どもも、健常児と同じように、思春期はやってきます。
我が強くなってきて、親の思うようには動いてくれなくなっていきます。

・・・・・

ある場所で関わっている生徒と、
「先生(私)と何をやる?」と相談をしたとき、
生徒は私が持っていた折り紙の本の中から、
とても綺麗なユニット折り紙を見つけ出した。

「それは、すごーく時間がかかるし、大変だよ?」

そう諭して、一度は諦めたのだが、
翌週またその頁をじっとみて、
「これ、やりたいなぁ・・・」
そう言って私をちらっと見た。

生徒の想いを尊重して、私達はやることにした。
時間はかかるけど、コツコツユニットを作っていけば、いつかは形になるもんね。

生徒と私で、毎週折り紙もしていくことになった。
遊びも、学習もやらないといけないし、協力して頑張ろうね!
そう言って約束した。

・・・・・

ある日の夕方、息子と家に居た。
息子はおやつを食べながらPCを見て遊んでいたので、
私は折り紙の研究をしていた。
実は、その生徒とユニット一つ作るのに、図解がすぐに読み取れなくて、
「先生、家で考えてくるからね」と宿題にして持って帰ってきていたのだ。
試行錯誤を繰り返しているうち、
息子は私に早く夕食作りにかかってくれないかなぁと思うようになった。

「お母さん、晩ご飯なに?」
母「・・・うーん、サンマ・・・」
「水入れて、サンマ焼くよ?」
母「・・・うーん、もうちょっとしたらね・・・6時になったら焼くから・・・」

待ちきれなくなった息子は、
「お風呂洗ってくるよ」
そう言って、お風呂場に行き、
「バスマジックリンどこ?(少なくなっていたので、追加して欲しいらしい)」
母「・・・うーん、あとで入れてあげる・・・」

「お母さん、バスマジックリン、あった!(とうとう探し出したのだ)」
そしてお風呂を洗い、お湯をセットして出てきた。

「お母さん、宿題するよ!」
そう言って勉強ボックスを持ってきた。
「引き算、書いて!」
「花丸して!」
そうやって、計算と漢字の勉強をした。
もう待ちきれないんだろうな、そろそろ6時だしな、とようやく動く気になった私。
「さてと、明日の学校の準備、しに行こうか。」
そう促して、息子の給食袋と体操服袋の準備を見届けるために別室へ移動する。

息子は学校の準備をした後、
となりで洗濯物を畳んでいる私を見て、
ボクもやろう、と自分の洗濯物を畳んで片付けていく。

・・・・・

息子は、極端に遊べなかった子どもだった。
ウロウロすることや、
電車の図鑑を見入ることぐらいしかできなかったと思う。
今でも能動的にやろうとする遊びのレパートリーは少ないが、
それでも、2人で長い間かけて、楽しく遊べるモノは何かないかと探って試した期間が長かった。
息子に振り向いて貰えなかったことがほとんどだったが、
だんだんと義理でつきあってくれるようになり、
そのうち笑顔で向かい合ってくれるようになった遊びもある。

長い年月をかけて培った「want to=したい」は、
いつしか「must=ねばならない」であっても受け入れられるようになり、
そして「must=ねばならない」がきっちりできることって、結構気持ちいいなと感じるようになってきているようだ。
大人になっていく過程で、「must=ねばならない」がある程度受け入れられるようになっていくことは、とても大切なことであると思う。

そうやって息子は、やりたくないなぁと思うことでも、
やっておけば得すると思うことでも、
頑張れるようになっていったように感じる。

前は用事をして貰う方が逆に手間だったけれど、
今では少し役立つ男にもなってきているぞ!?

・・・・・

いきなり「must=ねばならない」を突きつけても、人の心は動かない。
しかし「must=ねばならない」を何故やってくれないのと、苛立つ人は非常に多いのだ。
ちょっと待ってあげて・・・と言いたくなる。

・・・・・

社会人になった若い世代。
紙面でたくさんの方々と接するようになって2年。
様々な考え方の人がいるが、
声高々に「ワークライフバランス」が大切だと言われる方が、割と多いなと感じる。

でも、よくよく話を聞いてみると、
「ワークライフバランス」と言うよりも、
自分の趣味の時間をしっかりとらなければ、自分のバランスが保てないので、
残業はできない、こんな部署にいては残業しなくてはいけなくなる、どうしたらいいのでしょうか。
ということだったりする。

「want to=したい」、「must=ねばならない」の比率は、
常に一定でなければならない、と思いすぎているのではないか?
その時の状況によって、比率は変わって当然。
どちらも大切にしたら良いと思いますよ。
状況を見て、自分で比率を変えていけばいいのではないでしょうか。
とお話させていただく。

若者の中で、「want to=したい」の主張があまりに強すぎる人は、
もしかしたら幼いときの「want to=したい」体験が、少し足りなかった方なのかもしれない。
でも、もう既に時は遅し、というべきか。

巻き返しのきく年齢や状況、というのもあるので、悩ましいと感じる。

でも、まだまだ間に合う年齢であるならば、是非ともトライしてみて欲しい。

・・・・・

タカマミー

2015年10月8日木曜日

真似をする

人は、生後8~10ヶ月くらいから、
お母さんの真似をするようになるそうだ。

そして、1才を過ぎると「ふり遊び」をするようになる。
コップを持って、水を飲むふりをする、というような感じに。

1才後半には、「見立て遊び」もするようになる。
ブロックを車に見立てて、ブッブーみたいな感じに。

3才を過ぎる頃には、「ごっこ遊び」もするようになる。
お母さんごっこみたいな感じに。

・・・・・

ちなみに、チンパンジーは真似から物事を学んでいる部分もあるようだが、
人間の子どものように「すぐに人の真似する」というようなことはないらしい。
「まねっこ」の意図が理解できない、と考えられているらしい。
知的な動物だとして知られているけれど、
そこは人とは違うんだそうな。

・・・・・

発達障害(自閉症)の子どもはどうだろうか?

基本、真似はしない事が多い。
 
※真似はしても、
ずいぶん時間が経ってから運動会の歌を口ずさむ、
のようなことをすることもある。
(これは一般の真似とはちょっと意味が違うというのかな?)

※比較的軽い発達障害の子どもは、最初から真似をすることもあるし、
社会性が育ってきたり、彼らの成長と共に真似をし出す場合もある。
ただ全般に、通常よりもいろいろな意味で上手ではない。

・・・・・

真似をしないことは、何に影響していくのだろうか?

真似をしないメカニズム、その影響。
私は専門家ではないので、
本当に正しい表現を使って書けるかどうかわからないので、
控えておくことにします。

・・・・・

でもやっぱり、真似をしないことは、何に影響していくのだろうか?

真似から物事を学ばないってことなのです。

じゃあ、どうなるのか。

極論から言うと、
正しく学べないってことです。
正しく教えたくても、教えられないってことです。

※個人差があるので、絶対こうだとは言い切れません。

・・・・・

放っておいたら、
まねっこ、ふり遊び、見立て遊び、ごっこ遊び、
そういう発達はしません。
というより、しづらいです。

じゃあ、仕方がない、とするのか。
なんとかしたい、と思うのか。

・・・・・

私はなんとかしたいと思いました。

最初は、ある手法を使って模倣(真似)する技術を習得させました。
そこには、結構な時間がかかりました。
でも、出来るようになってきたとき
「やった、これでいろいろなことが伝えていける」と思いました。

しかし、しばらくしてふと気付きました。
あれ?
彼には、真似をしたいという気持ちが育っていないんじゃないか。
じゃあ、これ以上の発展は無理じゃないか?
そう思いました。

・・・・・

そう、真似は技術ではありません。
真似をしたい気持ちが大切なんです。
最初は下手でもいいんです。

だから、
上手にできなくてもお母さんみたいに洋服を着てみたいと思うし、
おぼつかない足もとでも、お兄ちゃんの後を追いかけて走ろうとするし、
技術よりも気持ちでカバーして、そしてだんだん上手になっていく。
そして、社会的に必要なことをどんどん吸収していく。
(逆に、幼稚園で汚い言葉を覚えてきたり、
お母さんの変なクセを真似たりもしていきますよね、
それも成長です)

そうだ、真似をしたい気持ちが大切なんだ。
そう気付きました。

・・・・・

そして、真似をしたい気持ちを育て、
人と一緒にいたらいいことあるね、
っていう気持ちを育てることに何年も費やしました。

結果、息子は「ごっこ遊び」までは難しかったのですが、
「見立て遊び」が楽しいレベルにまでは育ってくれました。
 
そしてようやく、周囲に好きだなぁと思える人がでてきて、
その人と一緒にいたいなぁと思えるようになってきたようです。
 
私が一番大切にしているのは、結局はそこです。
技術ではなくて、気持ちを育てることが大事だと思っています。

気持ちが育ってしまえば、その上にスキルを積んでいくことはできます。

・・・・・

実は先日、軽度発達障害のお子さんをお持ちで、
支援学校の教師をしていた友人と話しました。

その時
「え、Sちゃん、小さいとき模倣しなかったの?」
とびっくりされました。
「うん。全くしなかったよ。ゼロだよ。」
と答えました。

「支援学校の高等部にいる生徒さんで、模倣しない生徒さんいたでしょ?」
「元々、自閉症の子どもが模倣ができないってのは、定説だよね?」
と私は説明しました。

友人は、自閉症の子どもの中で、
”元々模倣ができる子と
”元々模倣ができない子”
その2種類に区別していただけであって、

”元々できなかったけど、できるようになった子”
という分類があったことは、あまり考えていなかったらしい、
ということがわかったのです。
 
確かに、そういう過程を見ることは、あまりないかもしれないな、
想像しにくいんだな、
と思いました。
 
・・・・・

私は、
”模倣ができなくても、気持ちを育てればある程度模倣はできるようになる”
”模倣が下手でも、同様に気持ちを育てることで、より上手になる”
と考えています。

私の個別指導や、親御さんへのコンサルティングは、
この部分を育てることが一番の目的です。

時間はかかりますが、気持ちを育てることは一生モノだと考えています。

小手先のスキルよりも、一生モノ。

絶対に価値があると私は感じます。
 
・・・・・

下手でもいいんです。
お母さんがやってること、ボク(ワタシ)もやってみたいなって、
ついつい同じことしてしまいたくなる、
そしてお母さんをじっと見つめる、
キラキラした瞳が宝物なのです。

・・・・・

タカマミー