2015年6月26日金曜日

生きることを楽しむ②非日常を楽しむ力

生きることを楽しむ 続編
②非日常を楽しむ力

を綴ります。

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アクティビティ
 
「川遊び」
足を怪我してしまうから、
何か履き物を履いて川に入ろう。
それが気持ち悪くてできない。
楽しめない。
入りたいけど、足が気になって気になって仕方がない。

6年くらいかけて、吹っ切れただろうか。
大きな石がいっぱいあることがわかったから。
葉っぱを流して流れていく様子を見たいから。
カエルを追いかける方が楽しくなったから。

「海水浴」
川遊びと同じく、
履き物を履いていられない。
水着に砂がつくと気持ち悪い。
どうやって遊んで良いかわからない。
楽しめない。

同じように6年くらいかかっただろうか。
今では、ざぶんざぶんやってくる波に乗れるのがお気に入り。

「スキー場」
雪は気持ちいい。
スキー場に行くと、端っこにある小さな川に行き、
橋の上から雪の固まりを落とす。
延々と続く、雪落とし。
ソリは一回滑ったら終了。

でも、いろいろな装具が気になる。
ミトン型の手袋はなんとかはめられても、
ちょっと水が入るともうはめていられない。
スノーシューズも水が入る。
もうちょっと身体が大きくなり、
5本指の手袋をつけたくても、
指の感覚がつかめなくて入れられない。
指が入れられなくて泣く。
ソリが壊れたと言ってパニックを起こす。

雪落としだけで8年を過ごした。
ある時試しにスキー板をつけてみた。
ただただ真っ直ぐに滑り降りるだけしかできないけれど、
楽しいなって思えた。
子供用リフトに何度も乗って、また滑った。

「自転車」
少しアップダウンのあるサイクリングロードまで、
折りたたみ自転車を積んでは通った。

お父さんが汗をかきながら押して。
息子は嫌になって、自転車を放置して。

自転車を持ってお父さんは追いかけた。
また乗ってみようかと誘って、お父さんはまた汗だくになった。

高学年になって、3人でサイクリングロードを走れたとき、
とっても嬉しかった。

「山登り」
愚図っては登り、愚図っては父の背中に。
途中での飴やお菓子を楽しみにしながら。
終わったらラーメンでも食べようよと誘いながら。

今では、ちょっとグズグズ言いながらも、
しっかり一人で歩く。

帰ったら、一番風呂はボクだと、楽しみにして。
 
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旅行

「旅館やホテルで泊まること」
大きいお風呂があって気持ちいいね。
旅館では、天ぷらがでてくるから、楽しみだね。
どこに行っても、美味しいご飯が出てきたり、
大きなお風呂があったり、
みんなで一緒に寝たりするんだね。
ボクは、温泉旅館に行ったら、計3回はお父さんとお風呂に行くよ。

「行った先々でそれなりに過ごすこと」
いろんな好きなアクティビティや、
息子の好きな動物など、
チョイスして組み合わせる旅行。

今でも、つまらなくて「帰る」「車に乗る」
っていうことはまだまだあるけれど、
好きなものをつないで、見通しを持って組んでいけば。

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来客・訪問

「大人の訪問」
家に誰かが来るということは、
自分の安定した陣地を汚されるようで、
自分らしく過ごせなくなるようで、とても苦手。

特に子供なんか一緒に来たら、何をされるかわからない。
大パニックに問題行動。

幸い、私は行く先々でいろんな先生方とお友達になった。
学校の先生もしかりである。
お茶しに来てくれる人。
一緒に晩ご飯パーティーをして、お酒を飲んでいく人。

息子のことをよく知っていてくれる人だから、
多少のことがあっても驚かないし、
息子も「なんで家に居るねん?」って思いながらも、
そんなに不愉快じゃない。

しかも、美味しいご飯が食べられたり、
美味しいオヤツを持ってきてくれたりする。
ちょっといいななんて思ってるかもしれない。

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非日常であるが、
”しっかりと狙いを持って同じような”経験を時々繰り返すことによって、
時々訪れる非日常が予測でき、それなりにワクワクできる力。

多少慣れてきた土台の上に重ねる、ちょっとした冒険ができる力。

ちょっと不安に思っても、好きな人と一緒に何かしたいと思う気持ち。

徐々に、徐々についていく、そんな力。
これからもまだまだ挑戦を続けていけることだろう。

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実は、主人も、私も、息子も、
いっぱいいっぱい悲しい思いをした。

どれ一つとっても、最初からうまくいったものなど無かった。
しかも、それが何年もうまくいかなかった。

何度無言で帰宅しただろうか。
何度やりきれない思いをしただろうか。

それでも続けてこられたのは、
主人いわく
「結局どのアクティビティも、自分が元々好きだから。」
「その場所やその活動が好きだから、悲しい思いなんて忘れてまた行ける。」

主人は、一旦自分の出番だと判れば、感心するほど息子に献身的だ。

自転車を押しながら、横を走り続けることが苦にならない。
スキー板を履いて動けなくなっている息子を抱えながら、ひょいと誘導する。
山道でぐずって動けなくなった息子を、おんぶして登ることも厭わない。
何度脱いでも、マリンシューズを黙って履かし続ける。

100%の力で息子をサポートすることができる人だ。
尊敬できるくらいにすごい。

そして、私は黙って主人と息子のサポートをする。
いつでも動きがとれるように、じっと側にいる。

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私は、日常の支援を100%で頑張り続けられる力があると思う。
主人は、非日常で力を発揮する器がある。

息子が手を伸ばしてくれたり、
一生懸命になってくれたり、
少しの笑顔を見せてくれたり、
それが私達にとってのご褒美だ。

話し合ったことはないけれど、
共通に秘めた思いだと感じている。
 
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「主人が主人らしく活躍できるところ」

やりがいを持って頑張っている仕事。
不眠不休で勉強してとった資格。
同じく時間をやりくりして執筆した本。
ライフワークとして取り組んでいるいろんな活動。

「私が私らしく活躍できるところ」

特段書くほどのこともないが・・・まあ多少はある。

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親にもそんな「自分を活かせる」場所が保障されているから、
それを認め合っているから、
精神的に満たされているから、
息子に100%を注いであげられるのかもしれない、と思う。

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今年の5月、旅館に泊まれると思って行った先は、
お父さんのマンション。
豪華な食事も出てくるわけでなく、お母さんがご飯を作るみたいだし、
浴衣はないし、
すぐ入れる温泉もない。
なんかイメージと違うなぁ。

そんなパパホテル。
前回は終始不機嫌だったけど、
夏に行くときは、もう少し楽しめるといいな。
どんなスケジュールを組もうかな。

息子がちょっとでも楽しんでくれたら、幸せだな。
きっと、お父さんも同じ思いに違いない。
 
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タカマミー

2015年6月19日金曜日

生きることを楽しむ①日常を楽しむ力

なんとなく過ごすこと。
淡々と過ごすこと。
夢中になって過ごすこと。
必死になって過ごすこと。
辛いと思って過ごすこと。
楽しいなと思って過ごすこと。
つまらないと思って過ごすこと。
ワクワクして過ごすこと。
メソメソして過ごすこと。

日常の一分一秒、一日一時間、
いろんな過ごし方があります。

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仕事をしていたり、
学業に励んでいたり、
家事をしていたり。

好きなところに行ったり、
買い物をしたり、
スポーツをしたり。

ぼんやりしていたり、
なんとなく外を眺めていたり、
ソファでゴロゴロしていたり。

一人の人にも、
いろんな場面があります。

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決まっていること。

それは、
学校に行って学習をすることや、
職場に行って何かの仕事をすることや、
家で自分の役割をすること。

毎週行く習い事、
よく通る道、
よく行くお店。

よく会う友達、
よく着る洋服、
よく乗る電車。

家での自分の定位置、
のんびりする格好、
暇つぶしの仕方。

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イレギュラーなこと。

それは、
学校での一年に一回の行事、
職場での突然の異動、
引っ越し。

突然始めることになったこと、
周りの都合により止めなくてはならなくなったこと。

季節の移り変わり。
旅行。

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いろんな場面が織り混ざった日常。
普段は、「決まったこと」が多いけど、
「イレギュラーなこと」もある。

決まったことが落ち着く人もいれば、
どんどん変わっていく世界が好きな人もいる。

それは人によって違います。

息子のような発達障害の人には、
「決まったこと」にしか対応できないタイプと、
逆に「決まったこと」ができないタイプ。

「イレギュラー」なことが対応できないタイプと、
常に目まぐるしくて整理がつかないタイプ。

うまく調和がとれていない人が非常に多いのです。
それが、本人にとっても、周りの支援者にとっても
対応が難しいなと感じる部分でもあります。

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私は、大きく2つのことを意識しながら、
息子との生活をしてきたように思います。

それは、

①日常を楽しむ力
②非日常を楽しむ力

です。

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①日常を楽しむ力

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「一日の生活の流れを理解すること」

繰り返し繰り返し、
毎日同じような時間に起きて、
同じような手順を踏んで生活をして、
同じような時間に就寝する。

時計がわからなくても、
見通しがもてない段階でも、
毎日の繰り返しで、子供は見通しを持って生活することを多少なりとも覚えていきます。

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「何か最後まで頑張ること」

出されたご飯を最後までちゃんと食べる。
出した玩具を片付けること。
寝る時間になったら布団に入ること。

線を5本描こうと決めたら、5本描く。
お茶碗を持っていくと決めたら持っていく。
靴を自分で履くと決めたら、自分で履ききる。
間違っていたら自分でやり直す。

それが、経験であり、成功体験を積んでいくことなのです。
最初はとてつもなく高い壁のようですが、
いつしかこれが当たり前なんだ、と身についていきます。

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「好きなことを見つけて促してやること」

彼が見ている物はどんなものか、観察してやること。
ちょっとだけでも手に取った物、それは興味があるものかもしれない。
どんな活動が好みなのかを知って、何かにつなげてやること。

敢えて新しいものにチャレンジしてみて、様子を見ること。
親が一緒に遊び楽しむこと。

親がたった一人で楽しんでいたとしても、
ちゃんと楽しいフリをして、子供にその姿を見せてあげること。

最初は嫌がってもめげないで一緒に続けてやること。
でも、どこかで引き際をも大切にしてやること。

観察し、考え、そして数打てば、
必ず何か好きな(親しめる)活動を見つけてあげることができるはずです。

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見通しがつくと、人は安心します。

頑張って最後までできるということで、達成感を感じます。
そして、それがやがて
「できたら嬉しい」「できなかったら悔しい」に変化していきます。
また、人から褒められたり認められたりすることも喜びとなります。
また、淡々とやり続けることに安心感を得ることができる、そういう人もいます。

ほんの小さなコトでいい、落ち着く何かがあると安心します。
好きなアイテムがあると安心します。
初めての場所でも、手がかりになるような好きなものがあったら過ごしやすいです。
それは人であっても、物であっても、
景色であっても、感覚や感触であっても、
匂いであっても、味であっても。

「慣れていること」は「好きなこと」とほぼ同じになるような気がします。

毎日見ているお母さんを子供が好きになるように。
何度もアンパンマンを見ているうちに、また見たくなっていくように。

好きになることはすごく少ないかもしれないけど、
それでも絶対何かはあるはずなのです。
それは人によって違う、子供によって違う。
だから、アイテムややり方は人によって違って当然なのです。

人はみんな違う。
子供もみんな違う。

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また後日、②非日常を楽しむ力 を書く予定でいます。

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タカマミー 

2015年6月12日金曜日

明るくなったら、朝がくるね。

息子はここ数日で、「朝」という言葉とおぼろげな概念を知った。
もうすぐ13才。

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私は、これまで積極的に息子に物事を教えてきた。
彼のように社会性の幼い子供達は、
勝手に物事を学んでくるということが少ない。

今息子がやっていることや知っていることは、
ほとんど私の力で教えた物だといっても言い過ぎではない。

でも、物事を教えるには時期がある。
「身体の発達」に関して言うと、
例えば片足立ちが多少できる位の身体の軸ができた頃に、
立ったまま靴を脱ぎ履きすることを教える
とか
二指がしっかりと使えるようになったらボタンを教えはじめる
とか、
一点を見つめることや追視が可能になった時期に
点から点へ線を引くことを教えはじめる
とかそういう意味である。

「精神的な発達」
もしかり。

「知的な発達」
もしかり。

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そして今日ここでテーマにしたいのは、
周りを見て、そして「気付く力」「知りたい気持ち」。
これが出てきているときは、
周りにいる人たちは、是非しっかりと気付いて仕掛けを作ってあげて欲しい。
それが、物事を覚える絶好のチャンスでもあるから。

本人が気になりかけている事象について、
そのタイミングで教えることに意味があると思う。

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息子は最近、空の様子を気にするようになった。
それは最初は、習い事の帰り道のふとした気付きからだった。
長年通っている習い事。
ここ数年帰路につく時間はきまって18:15。
4月の途中までは暗かったので、すぐに車のライトを付けたけど、
4月後半からは、
あれ?「暗い、ない!?」
”明るいね、まだライト要らないね。”と私は返した。
 
そして、家に帰って外を見ると、
あれ?「暗い」

次の日起きてみて
あれ?「明るい」
 
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夕焼けの時は夕方なんだなぁって思い、
一日のお日様の移り変わりにほんの少し気付き、
明るくなったらお母さんが雨戸を開けることに気付いた。

楽しみにしている通学バスは、
「明るくなったら」乗れるんだね、
と気付いた。

「暗くなったら」
もうお外で遊べないんだと気付いた。

さっさと夜ご飯を食べた日、
「外が暗くなってきた」から、
もうそろそろお風呂に入ってみようかと思ったりした。

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そして、
「明るくなったら~」
そう何度も言うようになった。

”明るくなったら?何するの?”と問うと、
「バスに乗る。」と答える。

”そうだね。明るくなったら「朝」。バスに乗れるね。”

そんなやりとりを繰り返すようになった。

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そして。
「明るくなったら、朝!バスに乗るよ!」
「おやすみなさい。」

そうやって明日を楽しみに、二階の寝室に向かうようになった息子。
 
・・・・・

もっともっと小さい頃に、
お日様の描いてある絵カードで「朝」という言葉は教えられたかもしれない。
でも、そういうことじゃなかったと思う。

健常の子供が、とても幼い時期に、
一日の流れをなんとなく知って、
お日様が昇って明るくなったら、朝なんだ、
って概念をいつの間にか知るように。

発達に凸凹があったり、知的な遅れがある子供も、
同じような気付きのある時に、
概念を知ることができるような「しかけ」

これは、非常に大切じゃないかなあと思う。

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理解が難しそうでもとりあえず形ばかり教えなければいけないこと、
本人の気付きを待ってそのタイミングで教えた方がいいこと、
どちらの場合もある。

だからもし、「朝」が緊急に必要になったら、
絵カードででも教えないといけないかもしれない。
でもそれは、本当に概念を理解したのとは違う。

概念を理解するときは、
彼らがそれを知る土台(準備)ができて、
そして彼らがそれを心から知りたいと思ったときだと思う。

ゆっくりでもいい。
そうやって一つ一つ積み上げていこう。

・・・・・

息子はまだまだ進化を続ける、私と共に。

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タカマミー

2015年6月1日月曜日

「できません」と言う力-ろう者と自閉症者の話から-

デフコミュニティという言葉がある。
「ろう者社会」と訳すことができる。

耳の不自由な方の世界については全く無知ですが、
今までに耳の不自由な方と一緒にお仕事をしたり、
知人として接したり、
また主人が仕事で関わった経験談を聞いたりしたことがある。
また、本で「デフコミュニティ」について、非常に興味深く読んだことがある。

その中で、いろいろな気付きがあった。
それは、ただ耳が不自由だという問題では片付けられないこと。
音の情報がないことで、様々な困難があるのだな、ということ。
そう、音が聞こえたら自然に気付くであろうことが、
その空気感がわからなくて困っておられる方が少なからずおられるということ。
・・・・・

自閉症者と重ね合わせて、似たところがあるかもなと思う。
自閉症者もまた、音の情報は拾えたとしても、正しく音の情報を拾えなくて苦労している。
よく言われるのは、聞き取らないといけない音と、そうでない音の区別がつかず、
どれも同じように拾ってしまうため混乱する、という類のことだ。
また、周囲を見る力も弱いので、誰かが情報発信していても、
それに気付かないという問題もあるのだ。
・・・・・

うちの息子も音には非常に敏感で、苦手な音がたくさんたくさんある。
いつもパチンコ屋さんの店内に居るような感じではないかと思う。
とても辛そうだ。

こんなに過ごしやすい時期なのに、
息子は家に入ると、すべての窓を閉めてしまう。
暑いから開けようよ、と言ってもどうしても嫌なようだ。
おそらく、山の上の閑静な(というか田舎な)住宅街にある我が家であっても、
鳥の声、風の音、車の音、いろんな音がかすかに聞こえてきて、安らげないのだろう。

だから、病院とか学校とか、もう大迷惑な世界なハズなのである。
・・・・・
 
現在講師を担当している通信講座で、
(おそらく)少し耳の不自由な方を担当させていただくことになった。

この方は、とある工場のライン作業者であり、
仕事中、無線で指示をうけているらしい。
当然聞き取れず、何度も聞き返すことになっているらしい。
この方の仕事へのモチベーションは下がる一方である。
当たり前だ。

それに気付かない会社、上司もどうかと思う。
しかし、本人が「無理です」って言えばいいじゃないか、
と思われる方が多いのではないだろうか?

ここがポイントである。
 
・・・・・
 
私の息子はわからないと
しらーっとどこかへ行ってしまったり、
走り回ってしまったりしてしまう。
 
先日も、支援学校の運動会のダンスで
「このダンスが始まると、とにかく走り回るんです」
と報告を受けていた。
「楽しいんですか?興奮しているんですか?ダンスは嫌いですか?」
先生はいろいろ問うてくださった。

ダンスを見ていないのでわからず、
いくつか
「こんな方法はいかがですか?」と伝えてはみたが、
当日様子を見てわかった。

彼は「わからなくて困っている」のだ。
決して「踊る」ことが嫌いではないのだ。
準備体操の「ラジオ体操」だってやっていたし、
小学校の時の「なんとか節」みたいなのもちゃんと踊っていた。

今回の支援学校のダンスは
「三代目 J Soul Brothers」のダンスそのものだった。
あのファジー感は彼にはお手上げだ。

彼もちょっと見て、これはやらされたとしても
ボクには処理しきれない、勘弁して~
と思ったんだろう。
 
だけど、それを伝えることができないから、
問題行動を起こす。
 
結構模倣だってするし、指示すればできることも多い子だし、
このダンスだって、普通にできるでしょ?
先生からは、そう見えるんだろう。
でも、無理だ。それを伝えられない。
・・・・・
 
通信講座の生徒さんの話に戻る。

この方も、いろんな情報が入らなくて大変だったことに加え、
その辛い状況を周りに発信する、という経験が少なかったのだろう。
空気感で、それが学べなかった、という悲しい実情もあるのだろう。
そして、教えても貰えなかったのだろう。
辛い状況にあっても、訴えて良いと判断ができなかった。

しかし、別の部分では「担当ラインを変えて欲しい」
という主張をされているとも書いてある。
この主張は、おそらく私が上司であっても受け入れられない主張なので、
却下されている。

できるだけ具体的に
「こう行動してみてはいかがでしょうか」と
書いてはみたものの、
それだけではどうしようもないかもな、
と悲しい気持ちになる。

どこまで介入していいのかはわからないが、
ちょっとの改善で、この方が働きやすくなり、
モチベーションがあがり、
仕事を辞めてしまう、というようなことを防ぐことができたら、
そんな気持ちでいる。

顔の見えない間柄だからこそ知り得た情報でもある。
少しアクションを起こしてみようと思う。

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彼らの困り感は、単純ではない。
そして「ふつう、○○でしょ」
のようなことが判らなかったりする。
「できません」と言っていい場面と、
言ってはいけない場面が、
判断できなかったりする。

・・・・・
 
通信講座では、とても優秀な人もお見かけするが、
このように、誰かが介入しなければマズイかも、
という人も見かけることがある。
どちらも大切な生徒さん達。
 
・・・・・

世の中にはいろんな人がいる。
「これはマズイかも」「こうしてみたらどうだろう?」
と感じる感性は、
日に日に磨かれていっている。

困っている人が、少しでも自分のことが伝えられて、
それによって周りから認められて、
お仕事が続けられるのも、
人の幸せにつながる、と思う。
・・・・・
 
ただいま添削中
タカマミー