2015年4月19日日曜日

目指すべきゴールとは

人を育てるとき、
その人にどんな風になって欲しいのか、
考えることがあるだろう。
 
職場であれば、新入社員や若手社員に対して、
家庭であれば、子供に対して、伴侶に対して。

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どんな人も、
完璧な姿を期待したい、というところだろう。

ホウレンソウがきちんとできて、
素直で、
コミュニケーションもうまくとれ、
リーダーシップがあって、
専門知識もどんどん吸収していく人材。

勉強ができて、
スポーツができて、
明るく朗らかで
友達も多く、
親や先生からの評判も良い子供。

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でも、人には個性もあるし、
得手不得手もある。
すべてが3割打者にはなれない。

でも、素晴らしい功績を残すような人が
全員幸せだとも限らない。

・・・・・

発達障害や知的障害の子供を育てていると、
特に幼児期、
発達指数(DQ)検査が行われる。

DQ≠IQだと考えていいだろう。
6才の子供の標準が100とした場合、
その子の発達が標準であれば100、
それより発達が進んでいれば110、
それより発達が遅れていれば60など
指数がでる。

発達指数が50であれば、
平均して6才の子供なら、3才ぐらいの発達と言えるだろう。
しかし、発達障害の子の場合、
発達の凸凹が非常に大きいので、
一概に、「○才ぐらいの知能」とは言えないところもある。
 
・・・・・
 
療育に一生懸命になればなるほど、
親も療育者も、
このDQに一喜一憂する。
 
「DQが上がった」
このフレーズに私は前から違和感を感じていた。

自分の子供がそういう体験ができなかったということもあるが、
そもそも上がるんだろうか?

私自身の考えでは、
NOである。

上がったのではなく、
正しく発揮できるようになった、
という表現が正しいのではないだろうか?

発達検査では、
質問されていることの意味がわかり、
正解がわかることも大切なのだが、
それ以前に、
「問われたことに忠実に答えようとする意思」
「すぐに行動しようとする意思」
「正しいことを答えたい気持ち」
「集中が継続できるかどうか」
「自分の考えが伝えられるかどうか」
がないと、
それに答えることができないからである。

療育が進んでいない子供達には、
こういった意思はあまりないことが多い。

だから、療育が進んで、
”社会的に、こういう時はこういう風に対応するんだな”
”座ってお勉強するときなんだな”
”ちょっとこの人の言うこと、聞いてみてもいいな”
そういう姿勢ができていったから、
答えられるようになっただけなのではないだろうか。

・・・・・

だから、「発達指数が上がった!」という声を聞くと、
そのお子さんをじっと観察してしまう。
元々理解力がありそうなお子さんだもんな、
という結論に至ることが多い。

・・・・・

発達指数が上がると言うことは、
理解できることが増え、
知識が増え、
人に従う力もついている、と言い換えることができると思う。

でも、発達指数があがることが目標なんだろうか?
私の答えはNOである。

・・・・・

人にはその人それぞれの目指すべきゴールがある。
というか、あるべきである。

でも、療育しないで(教育しないで)
子供(人)のありのままにさせておく
ということではない。

その子供(人)の特性を理解し、
苦手なところについては、
社会的に許される範囲まで引き上げる努力をする。
得意なところを一緒に見つけてあげ、
好きなことを一緒に見つけてあげ、
できることを増やしてあげる。

どんな風に生きていくのか、
社会で活躍していくのか、
そのイメージを一緒に作り、
それに向かって毎日を過ごしていけるように、
ぼんやりとした道筋を作っていってあげること。

それは、親や上司の押しつけであってはならない。
あくまで、本人の意向や
本人の特性に合っていて、
本人が幸せに感じるだろうゴールになるようにしなければならない。

そうすれば地に足がついた活動を
毎日地道にコツコツと送れるのではないだろうか。

・・・・・

私にとってそれが、
小さい頃2人で毎日取り組んだ行動療法(ABA)であったり、
その後さらに「社会性アップ」のために2人で取り組んだ遊びの数々であったり、
揉めながら続けた2人での調理であったり、
お手伝いであったり、
学習であったり、
繰り返しのフレーズで遊ぶ言葉遊びであったり、
学校の行き帰りの道であったり、
買い物へ二人で行くことであったり、
家で炬燵に入りながらダラダラ過ごす時間であったり、
すべてが、ゴールに行き着くための活動になっていった。

・・・・・

息子は今、中学一年生。
息子が3才の時に思い描いた未来と今。
一致はしていない。

思い描いた未来の姿が100であるとすれば、
今は30くらいかもしれない。

上方修正も下方修正もあってもいいじゃないか。
それはつきものじゃないだろうか。
軌道修正しながら、
努力してきた日々は、
いずれ、親子の納得へと行き着くんじゃないだろうか。

・・・・・

もし、突然息子が事故にあって死んでも、
私は後悔しないように生きようと思った。
そして、生きている。

未来を思い描きながら、
未来と向き合い、今と向き合いながら、
着実に毎日を生きてきたと思える。

これからどうなるのか、
まだ予測はつかないけれど、
これからも、そうやって生きていこうと思う。

・・・・・

そしてそれはどんな世界でも、共通だと思う。
「A社では仕事が合わなかったから、一生懸命になれなかった。」
そういう人が、B社で一生懸命になれるだろうか。

評価される域に達しなかったとしても、
一生懸命に努力したことは、
毎日に向き合ったことは、
その人の力となる。

そういう人は、きっとどこかで輝ける場所に出会えると思う。

若い女性の中で、一部で専業主婦指向が多少高まっているとも聞くが、
専業主婦は「何もしない人」ではない。
職場で評価されないし、やる気にならないから
専業主婦になったって、
いい主婦にはなれない。

結局、その人の人間としての生きる力や、何事にも向き合う姿勢が問われる。
育てる人も、育つ人も、
そんなことが問われているのではないだろうか。

・・・・・

どうお感じになりましたか?
是非感想をお聞かせください。

タカマミー

2 件のコメント:

タカミー さんのコメント...

難しいねぇ。「どうなってほしいか」ではなく、「どうあってほしいか」だもんね。しかも、「幸せに過ごして~」なんて抽象的でなく、ちゃんと具体化しないと迷うしねぇ。

タカマミー さんのコメント...

そうだね。
一般的には「幸せに」って表現を使っているけど、
親の中では、具体化されてたらいいと思う。
私なりに、いっぱい具体化案は持っているので、適時公開していきますね。