2015年12月11日金曜日

目に見える、という支援

子供が、
何かをやらないといけない時にふざけてしまったり、
さぼっていたりすると、
つい怒りたくなります。
「何やってるの?ちゃんとやりなさい」

でも、わからなくて「ふざけ」や「さぼり」という
行動につながっていたとしたら?

それ実は、怒る場面ではないんですよね。
教えてあげる場面なんです。

でも、子供って、
特に何らかの少しでも難しさを抱えている子供にとって、
「わからないんだけど」
「どういうこと?」
って伝えることができない難しさもあったりします。

でも、大人から見ると、
「当然わかっているに違いない」
「そんなこと、普通わかるだろう」
っていうようなことだったりするので、
両者の溝はなかなか埋まりません。

・・・・・
 
小学校の掃除の時間。
全員にそれぞれの割り当てがあって、
掃除の時間になったら、担当場所に行って掃除をすることになっています。
しかし、教師が全部の場面を見ているわけにもいかないので、
ある程度児童たちにまかせていることも多いです。

低学年の場合、
特に教室の掃き掃除がなかなか進みません。
したがって、教師が掃き掃除を一緒にしていることが多いようです。
そうしないと、仕上がらないのです。
・・・・・

そんな現場を1ヶ月ほど見てきたある週、
4人の児童がその週の教室の掃き掃除の割り当てとなりました。
今まで見てきた中でも、この4人、特に進みませんでした。
一人の児童と、教師しか、掃き掃除がまともにできる人がいなかったのです。

「ちゃんとやりなさい」そう言って、一人ずつ付き添って促してみた日。

ほうきの持ち方がおかしいため、持ち方を指導した日。

促せばやるものの、片方にゴミを掃いていくことができず、
ゴミが右に行ったり左に行ったりするので、向きを指導した日。

どのエリアをどっち向きに掃くか指導した日。
そして・・・
少し上手にはなったものの、まだまだ掃除にはならない。
そもそも、どこからどこに掃いているのか、全く見えてこない彼ら。

最終日、
「はい、ではこの紙を、机の方に向かって掃いてください!」
そういって、裏紙をちぎり撒き始めた私。

結果、4人ともせっせと後ろに向かって掃き、児童4人でゴミを集めることができました。
誰もふざけなかったし、誰もさぼらなかった。
最後まで全員で頑張ってやり遂げてくれました。
私は裏紙を持っていただけです!
・・・・・
 
実はこれ、私の最終手段として出そうとしていた秘策でした。
彼らがどれくらいの支援でできるのか、確認したかったのです。
よほどゴミだらけだったり、落ち葉でいっぱいだったりすれば、
掃いた場所と掃いていない場所ってわかるのですが、
なんとなく汚れている部屋って、どこを掃いて良いかわからないのです。

普通わかるだろう、って思うんですが、
「少し難しさを持っている子供」にとって、
”このあたりは掃いたし、あとはもうちょっと右を掃けばいいか”なんてことは
非常に難しいことなんです。
わからないから、やれないから、なんとなくダラダラしてしまう。
我が息子も、
「掃除機をかけて」
「この辺を掃いて」
はまだできません。

しかし、
「このテーブルを拭いて」
「浴槽の中をスポンジでこすって」
「お塩が床にこぼれたから、掃除機で吸って」
なら、とても上手にやり遂げられます。
 
自分が手を施したエリアと、そうでないエリアがしっかりわかることで、
もれなくやり通すことができるからです。

・・・・・
 
小学校の話に戻ります。
しかし、まだ小学生です。
途中から、
「先生、紙吹雪もっとやって~!」と、
違う盛り上がり方をし始めました。
そういうことじゃないんだけど(笑)

でも、目に見える支援をしたことと、
ちょっとした楽しい雰囲気にすることで、
彼らが嬉々として目的を達成できるなら、
まあいいのではないでしょうか。

いつか、そんな支援がなくても、
教室の前から、後ろに向かって、
紙吹雪を前から後ろに掃いていったように、
そのイメージをしっかり作ってからできるようになったら、
そう、最終的にできるようになったらいいんじゃないのかな。
 
・・・・・
紙吹雪が流行りだしたら、また厄介だ。

でも、しっかりお仕事をすることができる君たちは、
とっても素敵だよ。
 
・・・・・
 
タカマミー

2015年12月9日水曜日

手帳の更新

障害者手帳というと、「身体障害者手帳」が一般的でしょうか。
入館料が発生するような場所でも、「身体障害者手帳をお持ちの方は・・・」という記載がある場所もありますね。
 
私の息子は、「療育手帳」を所持しています。
療育手帳とは、知的障害を持っている人に発行される手帳です。
 
ちなみに息子は、知的障害(重度)だけでなく、自閉症(発達障害)もあります。
自閉症(発達障害)に対しては、明確な福祉制度が整っておらず、
厳密に言うと自閉症(発達障害)に対しての福祉手帳はないのが現状です。
いつか、発達障害者手帳なるものができる日が来るのでは、とも思います。
・・・・・

手帳は、状態が変化することもあるので、更新が必要であり、
更新時期になると発達テストを受けることになっています。
更新の間隔は、その人の年齢や状態によって様々です。
年齢が小さいと、伸びる可能性があるので頻繁ですし、
軽度になればなるほど、伸びる可能性も捨てきれないので頻繁です。
福祉の対象になるかならないかの瀬戸際の方もおられますからね。

逆に、年齢が大きくなると振れ幅が少ないと考えられているのでしょう。
また、重度になればなるほど急激な変化が少ないと考えられているのでしょう。
頻度が少なくなります。
なんとなく、悲しいような便利なような。
 
・・・・・
 
息子は、既に頻度は少なくなっています。
前回受けた発達テストは4年前だったそうです。
そして今日、4年ぶりに発達テストを受けました。
 
・・・・・
 
4年前というと、小学校3年生の冬。
心理士さんに連れられて、息子は個室に消えていった。
「待合室でお待ち下さい」と言われて、私はソファに座っていた。
でも、ワーとかギャーとか時々聞こえてくるし、
面白くもない、正解も言ってもらえない、褒めてももらえないテストに
素直に応じるとも思えないので、
どうなっているんだろうと、入り口のドアをじっと見つめていた記憶がある。
 
・・・・・
そして4年後。
心理士さんに「5番のお部屋です。」と言われて、そそくさと5番の部屋に入っていく息子。
「お母さん、外で待ってるから~」と後ろから声をかけたが、聞いているのか聞いていないのか。
4年前とは違い、場所も建物も変わってしまい、初めて入ったビルの片隅で、
私はソファに座って待った。
 
後から来た軽度らしき子供の親は
「1時間半くらいかかりますので、またお迎えに来てください」と説明されているのが聞こえた。

そうか、軽度の子は、テストが進むから時間も長いのか。
うちは、せいぜい30分くらいかな?
 
静かな廊下のソファで、ウトウトして待つこと30分。

「お母さん、終わりました。お部屋でご説明します。」
と声をかけられた。
 
・・・・・
 
結果を説明していただいた。

数の概念はあるが、抽象的な量の概念がわからない様子。
見た目でわかる表情は理解できるが、抽象的な感情の概念はわからない様子。
平面はわかるが、立体になると難しい。
目の前に見本があればできるが、記憶して再現することは難しい。
言葉だけの説明では、理解できないことも多く、悩んでしまう。

かなり妥当な結果だった。
数値も妥当だと思った。

・・・・・

「それで、最後まで指示に従って、やりきれましたか?」
私にはそこが気にかかっていた。

「はい。切り替えが難しくても、説明して見せて待てば、きちんと応じられました。
最後までしっかり座って、与えられたことをやり通す姿勢がありました。
テストはスムーズにできました。」
とおっしゃった。
 
「多分、4年前は理解を確かめるという本来の目的以前に、テストをし続けることが難しかったんですよね?」
と続けておっしゃった。

・・・・・

今回、しっかり応じられたとしても、知的な能力が伸びているとは言えない結果だった。
でも、私には「しっかり応じられた」ことがとても嬉しかった。
それが彼には必要だと思っていたし、なんとかそうなって欲しいと思っていたから。
知的な能力を無理矢理なんとかしようと思っても難しいところがあるが、
物事に対する姿勢は作っていけると思った。
テスト中、心配で心配でドアを凝視していた4年前の私。
ソファで居眠りして待っていた、今日の私。
 
それだけ考えても、この4年で息子は安定したんだなと感じる。
「きっと、やれるだろう。そこそこ応じてやっているだろう。」と思えたもの。
知的な能力は仕方ないにしても、なんとなくまとまってきたもの。
そういう話を心理士さんにした。
 
・・・・・
 
前回のテストは記録からしか読み取ることができませんが、
大きく変わられたんでしょうね。
発達指数という数値では、同じような結果であっても、
数値ではない、情緒の安定や姿勢が最終的には生きていくのに大切な部分になります。
日々の一貫した周りからの支援や関わり、積み重ねで、
人はそんなにも変わるのか、という思いです。
きっと、彼の大きな財産になっていくと思います。

そう、心理士さんはおっしゃった。

・・・・・

初めての場所で、初めての人と、
「今日はテストだよ」と言われて「テスト?」と意味がわからなかった息子。

だけど、なんかこの部屋のこの倚子に座って、
このお姉さんの出される課題に答えていったらいいみたいだ。
時々「これ最後までやりたいのに」って思うのに、もうおしまいって言われたりするけど、
仕方ない、このつみきは返して、次の課題をやればいいんだね。
いつになったら終わるかな?
まあでも、座っていてやることがないのは困ってしまうけど、
次々やることが出てくるし、
わからないこともいっぱいあるけど、
わかることはできると楽しいよね。
多分、お母さんは外で待っていてくれるんだろう。
家に帰ったら、何しようかな?
 
そんな気持ちだったんじゃないだろうか。

・・・・・

何ができたわけでも、何かが変わったわけでもないんだけど、
そして結果はそのままではあったんだけど、
なんだか、良かったな。
なんだか、ホッとしたな。

・・・・・
 
タカマミー

2015年12月6日日曜日

はじめの一歩(時間を気にする課題)

現在中一の息子。
小学校6年生で、なんとか時計から時刻を読み取れるところまでこぎ着けた。

普通の子供は、
時計が読めるようになると、
それを生活の中で活かしていけるようになるのが普通だ。
時計がどういうものかわかっていて、
針が進んでいくこともわかっていて、
みんなが時間に合わせて生活していることをなんとなく知っているから。
しかし、息子のようなタイプの子供にとって、
時計が読めることと、
時計の意味が分かることとは全く別物だ。
多分、今でも朝のバスの時刻が毎日一定だなんて、
知らないはずだ。

言って聞かせたところで意味がわからない。
本人が理解する土壌ができるまで、お預けである。
・・・・・

6年生で時刻を読み取れるようになったとき、
私は、次の課題を設定した。
それは、
「○時になったら、お出かけしよう!」
「○時になったら、晩ご飯だ!」
そうやって、本人のモチベーションが高い活動で、
本人が時計を見て「あ、○時になった!」と気付くことができる。
そして、「○時になったよ。」と知らせることができる。
ということだ。
・・・・・

しかし、この課題はなかなか進まなかった。
モチベーションの高いことは、
今すぐにでもしたいし、
イライラしてしまう。
そのイライラが勝ってしまうので、
時計を気にするどころではなかった。

結局、時計と同時にタイマーでカウントダウンしなければ、
見通しがつかないので、イライラして大変なことになってしまった。
そうすると、結局タイマーしか見ていないという結果になる。

・・・・・
 
今日は、一日母子2人で過ごす暇な日であった。
午前中は散髪に行って、
その後大好きなお店に行ってランチをしよう、
という予定を2人で立てた。

そして帰宅したら、お昼の1時。
家に入ったけれど、すぐ
「お出かけしたい。車乗ってたこ焼き買いに行く。」
と言い出した。

正直、私も平日の疲れが取れていないし、
添削の仕事もMAXでやってきているのに何もできていないし、
どちらかをしなければ、という焦りもあった。

「じゃあ、2時になったらお出かけしよう。それまで自由時間。」
息子はそこそこ納得して、パソコンで遊び始めた。

同じ部屋で私も仕事をやり始める。
あーちょっと疲れた、横になろうとウトウトしていたら、

「お母さん、2時7分なった!」
と息子に告げられた。

時計をずっと見ていた訳ではないようだが、
それでも2時になったら出掛けられる、
時計を見たら2時を過ぎている、
ということが読み取れたようだ。

「よしよし、じゃあ車でお出かけに行こう!」

・・・・・

仕事で関わらせてもらっている高学年の児童。
担任の先生からは、
「時間を守ることができず、遅れてしまうので、
時間を守るように教えて下さい。」
と言われた。

「時間を気にかけられるように、何かされていることはありますか?」と尋ねたところ、

・このプリントは○時までにやりなさい。
・給食は、○時までに食べなさい。
と時計を近くに置いて指導してきた、とのこと。

そう、学校などの「ねばならない」場所だと、
結局こういう風にしか伝えられないのだ。
子供にとっては、時間を守ったところで特に良い結果も返ってくるわけでもない。

みんなと同じように遅れずできた!
恥ずかしくなかった!
そういう気持ちがしっかり芽生えていれば、効果はあると思う。
が、そうでなかった場合、効果があるだろうか?
私はないと思う。

・・・・・

息子も、いずれ約束の時間までに~をする、などという行動が取れると良いなと考えている。
今はまだ、時間を気にする活動は始まったばかり。
とりあえず、はじめの一歩は踏み出せた日になった。
のんびり母子で過ごすのも、悪くないかも。
いい日になったな♪

・・・・・

タカマミー

2015年11月27日金曜日

こだわりの修正

発達障害、特に自閉症と呼ばれる人達には、
「こだわり」が多く見られます。

”私は、和食を作る時、出汁のとりかたにこだわっています!”
とか、
”こだわりの洗車方法があります!”
とか、
本人の好みの範疇であったり、
独自の素敵な方法を持っている、
という「こだわり」だと良いのです。

しかし、自閉症の人のこだわりは、
良いこだわりよりも、
ネガティブな意味でのこだわりが非常に多いのです。

必要以上に時間がかかってしまうようなこだわり、
人に迷惑をかけてまでしてしまうこだわり、
体調を崩してしまうようなこだわり、
栄養を偏らせてしまうこだわり、
そのようなこだわりは、ネガティブと言わざるを得ません。

そのようなその人や周りの人を苦しめてしまうようなこだわりは、
非常に厄介です。

・・・・・

私が関わっている学童期のお子さんの例です。

学習面で遅れがあると言われています。

しかし、一緒に学習をしていて、ものすごく理解力がないか、
と言われれば、そうでもありません。

整理して紐解けば、しっかり理解して解を出せる子です。

でも、学力が定着しないのです。

その理由の一つに、ノートの書き方へのこだわりがあるのかも、と思いました。

ノートの空いている箇所をなくすべく、
定規で区切ってでも、すべてのマスに詰めて書いていきたいのです。

したがって、ノートを見返したとき、何がどこに書いてあるか、
よくわかりません。
答え合わせも、丸つけも、困難なノートです。
 
・・・・・

周りの人は、
「それはその子のこだわりなんです。なかなか直らなくて。」
と言います。

結構素直なお子さんなのに、直らないもんなんだなぁ。
そんな感想を持っていました。

・・・・・

やってみたこと。
それは、ノートをもう一冊用意して、
「さあ、今までの書き方をちょっと置いておいて
私と同じように真似して解答を書いていこう。」
と隣で見本を書くこと、です。

定規で区切ることはどうやら好きのようなので、
赤線でドリルの区切りをつけたり、
(1)を四角く区切ったりしながらも、
とにかく1問ずつ改行していくことを目指しました。

実は、私の前にも、同じように実施した支援者がいたので(相談しました)、
今回、この方法が2回目でした。

・・・・・

結果、全く問題なく支援を受け入れて、改行して書いてくれました。

元々は素直なお子さんなので、こだわりをどうしても通す、
というほど頑固なタイプではありません。

あとは、これを根気強く続けていき、
やがてそのお子さん一人の時でも改行していけるように
支援をしたりゆるめたり、していくことでしょうか。
具体的には、授業の時に、黒衣となって入り込みたいなと思っています。

もう少し学年が上がれば、テストの為にノートを見返して勉強する、
ということが増えていくでしょう。
そんな時、きっと整理された見やすいノートが、威力を発揮するはずです。

・・・・・

じゃあ、どうして今まで直すことができなかったのか。

見ていないので想像ですが、
口で注意していただけだったのかもしれません。
「改行して書きなさい。」
「いやだ、こっちの方がいい。」
そんなやりとりだったのではないでしょうか。

・・・・・

注意と支援は全く別物です。
注意は「~してはいけません。・・・しなさい。」
のようなイメージです。

支援は「・・・してみよう。・・・のように真似してみよう。・・・って言ってみよう。」
のようなイメージです。

支援は、場合によっては、言葉も必要ありません。
ただ、横で見本を見せたり、誘導したりするだけです。

・・・・・

簡単じゃないか!
そう思われるかもしれません。

しかし、支援は実はこんなにすんなりいきませんし、根気もいる作業です。
支援者は、上手に黒衣にならなければなりません。
そして、どうやって支援するかのアイディアがその場面に合っていないと、ミスマッチを起こし、うまく事が運びません。
 
・・・・・

それから、支援を受け入れる側の基礎が整っていないとできません。
・真似をすることができる。
・嫌だなと思っても、人とうまくやっていきたいから葛藤しながらも受け入れる素地がある。
支援し、ネガティブなこだわりを修正していこうと思ったけれど、
基礎がまだ備わっていなければ、基礎作りから始めなければなりません。
結局は、私が大切にして育てたいと繰り返し書いている
「社会性の基礎」に行き着いてしまうのです。

・・・・・

①問題が起こったから対処する。
それも大切です。
しかし、
②問題が次々に起こっても、すぐに修正する手段を持っている、
または、
③そもそも問題が起こらないように防ぐ、
ということが大切だと考えます。

例をあげると、
工場で製品を作り、
時々不良品が混ざっていて、クレームが来る。
それに対応するのが①です。
不良品かどうかを、検品により精度良く取り除ける手段を構築しておく。
これが②です。
工場で不良品が頻発しないように、
ラインの問題点を見つけて、改善する。
これが③です。

工場のカイゼンとよく似ていると思います。
ただ、対象が人なだけです。
 
・・・・・

次は工場に働きに行ってみるかな?

タカマミー






2015年10月22日木曜日

自己刺激行動

自閉症児にありがちな行動。
「自己刺激行動」

原始的な遊びとでも言ったら良いんだろうか。

手をひらひらさせる
くるくる回る
玩具の車の車輪が回っているのを見る
ヒモを振る
本をペラペラめくる感触を楽しむ

と言ったような、
いわば感覚を刺激する遊びのようなもの。
自分の覚醒を保つようにと、ついついやってしまう行動。
貧乏揺すりも一種の自己刺激行動なのです。
 
・・・・・

「自己刺激行動」は長く続けさせないでください。
「自己刺激行動」は止めさせてください。
そういう療育の指導者が言われていたんですが、と、ある方に聞いた。
 
・・・・・

え、そうかなぁ。
じゃあ、他にやることがあれば、やりたいことがあれば
そっちをやるだろうけど、
ないから自己刺激にふけってるんじゃないの。
他に何をしろと?
止めさせられても、困るんじゃないかなぁ?

・・・・・

自己刺激行動を止めさせることは、
さらに別の自己刺激行動を生み出すか、
問題行動を生み出すかになりはしないか?
そう感じるのです。

止めさせるというところで終わりではなく、
違う行動に移れるように促してあげるなら良いと思うのだが。
 
・・・・・
 
あるお子さんのケース。

「扇風機が回っているのをじっと見たり、そういうことはしますか?」
とお母様にお聞きしたとき、
「いや、そんなにしないと思うのですが・・・」
と答えられていた。

しかし、私は見た。
数字の型はめパズルをしていたとき、
「+」と「×」のパズルの時だけ、すぐに型にはめず、
両手で一生懸命パズルを回して、じっと見ていたのを。

目の刺激、欲しいんだろうな・・・

お母様にそう伝えた。
「そうですか。そういえばぐるぐる回る物、意外と好きなのかも・・・」
と仰った。

そしてその後私は続けた。
 
・・・・・
 
別にいいんじゃないですか、自己刺激。
そういう刺激が好きなら好きで。
それを遊びに活かしてあげればいいんじゃないですか?
風車を作って、ふぅって吹いて見る、みたいな。
そうしたら、「+」をくるくる回してじっと見るのも好きだし、
風車が回るのも好きだし、
他に回るものを見る遊びが好きになるかもしれない。
自分で回してみたいって思うかもしれない。

そうやって、好きな感覚を見つけて、
遊びを増やしていってあげればいいんだって考えてみたらどう?
自己刺激にふけりたいときは、きっと彼が落ち着きたいとき。
ふけらせてあげてもいいような気がしますよ。
その代わり、遊びを増やしてあげる活動も地道にやっていこうね。
 
お母様は、とても深く頷かれた。

そして、早速風車を作ろうと仰っていた。
 
・・・・・

うちの息子、
未だに外では、羽生くんの氷上での回転のように、超高速自力回転しています。
突然走りたくなって、全速力で走っています。
爪噛みもします。

小さいときは、他にもいろいろな行動がありました。
電車の玩具を横目でずっと見ていたり(これ、非常にありがちな行動です)
顔をしかめることで細目にして物を見たり、
雑誌をひたすら落としていたり、
ボトルをひたすら出して並べていたり・・・

このような、傍目にはよくわからない行動も、
その刺激の要素を遊びに取り入れていけば、遊びの数も増えます。
そして、本人もやることが増え、満足です。
感覚の刺激も得られ、満足です。
笑顔の子どもを見て、母も満足です。

そうやって、少ない活動のレパートリーを増やしていく。
禁止するのではなく、活かす。

・・・・・

そんなにタカマミー先生のようにアイディアが湧きません・・・
とよく言われますが、
私も最初からアイディアマンだった訳ではないのです。
観察を重ねて、分かるようになったのです。
努力して、アイディアが湧くようになったと思うのです。

・・・・・

彼らを観察して、彼らの行動の意味や、本当の気持ちを理解できたら、
それはそれは充実感を得られますし、爽快です。
そして、そんな彼らに寄り添いたいと思います。
そんな活動が、私は結構好きです。

・・・・・

タカマミー

2015年10月21日水曜日

曖昧であること・はっきり言わないこと

母親と、初めて対等に喧嘩をした。
というより、私が一方的に怒ってしまったという方が正しい。

・・・・・

私は自分の母親が好きだった。
私が結婚してから家を離れてからも、
息子のことで私が病気になり動けなかったとき、
息子とのお出かけが難しかったとき、
いつも助けてくれた恩人でもある。
母がいなければ、今の安泰な生活はなかったと言って良い。

母はとてもしっかりしているのだが(と思っていたのだが)、
自分が厳格すぎる家で育ったこと、
介護をしなくてはならず、結果働いたことがなく、あまりにも世間を知らないということ、
そして曖昧さが美徳とされる世代なのか地域なのか、
はっきり物を言わないということ。

そして老化もあるのか、
きっと私(タカマミー)がなんとかしてくれるんじゃないかというような
精神的な依存も感じる。

まあまあ、父のことはあてににできないのも可哀想だし、
お世話になった母だし仕方がない。
そう思って優しく付き合ってきたつもりだった。

・・・・・

しかし、あることをきっかけに私の中で何かが爆発してしまった。
そんなに怒る事じゃないでしょ、と母は最初思っていたと思う。

・・・・・

私は怒りのために、普段は思い出してもみないようなことを急に思い出した。
中学生の頃に感じた、理不尽に思えた出来事。
大したことではなかったんだが、一方的に私が悪いと怒られた出来事。
当時はまだ子どもだったし、いろんな想いはあったが、大人に勝てるわけがない。
ちゃんとやっているのに何故と思いながら、謝るしかなかった出来事。

でも、私は息子を育てていく過程で、本当にいろんなことを学んだ。
相手がどんな人であっても、しっかりと伝えなければ、相手にはわからない。
伝えようとする努力をしないのに、何故わからないのだと怒る権利はないのだ。
思っているだけでは駄目なんだ。行動しなければわからないんだ。
やっぱり私は間違っていなかった。
子どもだと思って、ちゃんと説明しなかった母が悪かったんだ。

そういうことを、これまでにも時々思い出していたことに気付いた。

・・・・・

私は思春期に、きちんと反抗期を通過することができなかったと感じている。
それは、私が元々「まあまあ聞き分けの良い、まあまあお利口な子」であり、
自由な兄に手を焼いている母を見て余計に「私は親をわずらわせまい」と思っていたこと。

そして、いろんなことをやらせてくれて、愛情かけて育てたいと思っていた母から、
彼女の根底にある「自分が子どもの頃経験した、厳格な子育て」が見え隠れした。
有無を言わせない何かがあったのだ。

それでも、一生懸命やってくれたし、私にもいろいろなサポートをしてくれたと思っている。
それでも、何かモヤモヤしたものがあった。

・・・・・

社会人になってから、なんだか息苦しいなぁと感じて、
かなり喧嘩をしたなぁという記憶もある。
あれが、私の遅く訪れた反抗期だったのかもしれないと感じる。

・・・・・

そして今、母の表現する「曖昧さ」が気になって仕方がないと感じるようになった。

また、母が私を怒らせたにも関わらず、すぐにフォローしようとしないことにも腹が立った。
「時間を置いた方が良いと思った」
いや、違うやろ?連絡するのが怖かったんでしょ?
きっと、私(タカマミー)からなんとかしてきてくれると思ってたんでしょ?
そう思えて仕方がない。
私の息子のことでたくさん力を貸してくれ、可愛がってくれているのに、
いざ親戚の前に、彼女の知り合いの前に、息子を連れて行こうとすると、ものすごい拒否をする。
ああ、彼女の周りの人には、孫が普通ではない可哀想な子どもだということを、きっと知られたくないんだと感じる。

・・・・・

曖昧にしておくことは美徳なんだろうか?

のんびり時間を置いておくことで、何か解決するんだろうか?

思ってたけどしなかった、で真剣さが伝わるんだろうか?

・・・・・

今の私の考え方は真逆だ。
伝えたいと思うことは、きちんと言葉にして伝えなければ伝わらない。
物事にはタイミングがある。
放っておいて勝手に解決するものなんてない。
思ってた考えてたは、自分の中だけのことであって人にはわからない。

母は、いつも前向きに進んでいく私を、周りからだんだん信頼を得ていく私を、
「すごいね、頑張ってるものね。」と応援してくれているのも知っている。
でも、何かで関わったとき、スピード感や考え方の違いに、
母はとまどい、中途半端に頼ろうとし、
娘はいらだち、はっきりさせようとする。

・・・・・

老いるとだんだんそうなる、と考えないといけないのか。

親にはいつまでもしっかりしていて欲しいと思う、娘の勝手なエゴなのか。

私は人に完璧を求めすぎているのか。

親が曖昧にしていることのツケが、自分に回ってくることをただ恐れているのか。
 
自問自答の日々を過ごしている。
 
・・・・・
 
タカマミー
 
 

2015年10月14日水曜日

「want to」そして「must」

学齢期に入った子どもの親御さんから、
「言うことを聞かない。やらないといけないことをさっさとできない。」
そんなことを時々聞く。

何故やらないのか?
やり方がわからないのか。
やる気持ちになれないのか。
多分後者だろう。

せっぱ詰まればやるのか?
それとも、少し見守ってやればしようとするのか?
一緒に手伝ってやればするのか?
頑としてやらないのか。
さてどれなんだろう。
(この事柄については、別途お話させていただこうと考えている)

・・・・・

私はお子さんに物事をやろう、行動しようとする気持ちを育てるのは、
幼いうちに「want to=したい」事柄で育てるといいのかもな、と感じている。

発達障害の幼児期のお子さんを観察していると、
中には「どのように遊んでいいのかわからなくて」ただウロウロしているお子さんもいることに気付く。
そういうお子さんには、「こんな遊び、いかがですか?お好みに合うんじゃないでしょうか?」と積極的に紹介もしていくことをお勧めしている。

それがお子さんにとってマッチする遊びだと、最終的には「want to=したい」遊びに変化していくからだ。
導入部分はどんな形でもいい、「わあ、楽しいなぁ。」「もっとやりたいなぁ」「昨日のあれ、もう一回やろうよ」そんな気持ちがしっかり育つことが大切だと思う。

そんな経験をたくさん積んだお子さんは、
能動的に物事をしようとしていくようになる、と感じる。

元々受動的なお子さんであっても、そこそこ能動的な方向には向いていくと感じる。

・・・・・

そんな経験をたくさん積んで、何かで遊んだり、集中したり、考えたり、人と関わったりすることが楽しい、そんな感情がしっかりとできあがる。
そうすれば、「must=ねばならない」事柄でもある程度、うまくやれるようになると感じる。

・・・・・

世の中には、「must=ねばならない」事柄はたくさんある。
十分、能動的に遊ぶ体験をして、主体的に遊ぼうとした経験がないのに、いきなり「must=ねばならない」を突きつけられたら、きっと誰だってできないだろう。

学齢期に「主体的に動けなくて」躓いているお子さんは、
もしかしたら、もう一回「want to=したい」から再スタートした方が、
実は近道なんじゃないかと感じている。

だって、その後思春期もやってくるんです。
発達障害や知的障害のある子どもも、健常児と同じように、思春期はやってきます。
我が強くなってきて、親の思うようには動いてくれなくなっていきます。

・・・・・

ある場所で関わっている生徒と、
「先生(私)と何をやる?」と相談をしたとき、
生徒は私が持っていた折り紙の本の中から、
とても綺麗なユニット折り紙を見つけ出した。

「それは、すごーく時間がかかるし、大変だよ?」

そう諭して、一度は諦めたのだが、
翌週またその頁をじっとみて、
「これ、やりたいなぁ・・・」
そう言って私をちらっと見た。

生徒の想いを尊重して、私達はやることにした。
時間はかかるけど、コツコツユニットを作っていけば、いつかは形になるもんね。

生徒と私で、毎週折り紙もしていくことになった。
遊びも、学習もやらないといけないし、協力して頑張ろうね!
そう言って約束した。

・・・・・

ある日の夕方、息子と家に居た。
息子はおやつを食べながらPCを見て遊んでいたので、
私は折り紙の研究をしていた。
実は、その生徒とユニット一つ作るのに、図解がすぐに読み取れなくて、
「先生、家で考えてくるからね」と宿題にして持って帰ってきていたのだ。
試行錯誤を繰り返しているうち、
息子は私に早く夕食作りにかかってくれないかなぁと思うようになった。

「お母さん、晩ご飯なに?」
母「・・・うーん、サンマ・・・」
「水入れて、サンマ焼くよ?」
母「・・・うーん、もうちょっとしたらね・・・6時になったら焼くから・・・」

待ちきれなくなった息子は、
「お風呂洗ってくるよ」
そう言って、お風呂場に行き、
「バスマジックリンどこ?(少なくなっていたので、追加して欲しいらしい)」
母「・・・うーん、あとで入れてあげる・・・」

「お母さん、バスマジックリン、あった!(とうとう探し出したのだ)」
そしてお風呂を洗い、お湯をセットして出てきた。

「お母さん、宿題するよ!」
そう言って勉強ボックスを持ってきた。
「引き算、書いて!」
「花丸して!」
そうやって、計算と漢字の勉強をした。
もう待ちきれないんだろうな、そろそろ6時だしな、とようやく動く気になった私。
「さてと、明日の学校の準備、しに行こうか。」
そう促して、息子の給食袋と体操服袋の準備を見届けるために別室へ移動する。

息子は学校の準備をした後、
となりで洗濯物を畳んでいる私を見て、
ボクもやろう、と自分の洗濯物を畳んで片付けていく。

・・・・・

息子は、極端に遊べなかった子どもだった。
ウロウロすることや、
電車の図鑑を見入ることぐらいしかできなかったと思う。
今でも能動的にやろうとする遊びのレパートリーは少ないが、
それでも、2人で長い間かけて、楽しく遊べるモノは何かないかと探って試した期間が長かった。
息子に振り向いて貰えなかったことがほとんどだったが、
だんだんと義理でつきあってくれるようになり、
そのうち笑顔で向かい合ってくれるようになった遊びもある。

長い年月をかけて培った「want to=したい」は、
いつしか「must=ねばならない」であっても受け入れられるようになり、
そして「must=ねばならない」がきっちりできることって、結構気持ちいいなと感じるようになってきているようだ。
大人になっていく過程で、「must=ねばならない」がある程度受け入れられるようになっていくことは、とても大切なことであると思う。

そうやって息子は、やりたくないなぁと思うことでも、
やっておけば得すると思うことでも、
頑張れるようになっていったように感じる。

前は用事をして貰う方が逆に手間だったけれど、
今では少し役立つ男にもなってきているぞ!?

・・・・・

いきなり「must=ねばならない」を突きつけても、人の心は動かない。
しかし「must=ねばならない」を何故やってくれないのと、苛立つ人は非常に多いのだ。
ちょっと待ってあげて・・・と言いたくなる。

・・・・・

社会人になった若い世代。
紙面でたくさんの方々と接するようになって2年。
様々な考え方の人がいるが、
声高々に「ワークライフバランス」が大切だと言われる方が、割と多いなと感じる。

でも、よくよく話を聞いてみると、
「ワークライフバランス」と言うよりも、
自分の趣味の時間をしっかりとらなければ、自分のバランスが保てないので、
残業はできない、こんな部署にいては残業しなくてはいけなくなる、どうしたらいいのでしょうか。
ということだったりする。

「want to=したい」、「must=ねばならない」の比率は、
常に一定でなければならない、と思いすぎているのではないか?
その時の状況によって、比率は変わって当然。
どちらも大切にしたら良いと思いますよ。
状況を見て、自分で比率を変えていけばいいのではないでしょうか。
とお話させていただく。

若者の中で、「want to=したい」の主張があまりに強すぎる人は、
もしかしたら幼いときの「want to=したい」体験が、少し足りなかった方なのかもしれない。
でも、もう既に時は遅し、というべきか。

巻き返しのきく年齢や状況、というのもあるので、悩ましいと感じる。

でも、まだまだ間に合う年齢であるならば、是非ともトライしてみて欲しい。

・・・・・

タカマミー

2015年10月8日木曜日

真似をする

人は、生後8~10ヶ月くらいから、
お母さんの真似をするようになるそうだ。

そして、1才を過ぎると「ふり遊び」をするようになる。
コップを持って、水を飲むふりをする、というような感じに。

1才後半には、「見立て遊び」もするようになる。
ブロックを車に見立てて、ブッブーみたいな感じに。

3才を過ぎる頃には、「ごっこ遊び」もするようになる。
お母さんごっこみたいな感じに。

・・・・・

ちなみに、チンパンジーは真似から物事を学んでいる部分もあるようだが、
人間の子どものように「すぐに人の真似する」というようなことはないらしい。
「まねっこ」の意図が理解できない、と考えられているらしい。
知的な動物だとして知られているけれど、
そこは人とは違うんだそうな。

・・・・・

発達障害(自閉症)の子どもはどうだろうか?

基本、真似はしない事が多い。
 
※真似はしても、
ずいぶん時間が経ってから運動会の歌を口ずさむ、
のようなことをすることもある。
(これは一般の真似とはちょっと意味が違うというのかな?)

※比較的軽い発達障害の子どもは、最初から真似をすることもあるし、
社会性が育ってきたり、彼らの成長と共に真似をし出す場合もある。
ただ全般に、通常よりもいろいろな意味で上手ではない。

・・・・・

真似をしないことは、何に影響していくのだろうか?

真似をしないメカニズム、その影響。
私は専門家ではないので、
本当に正しい表現を使って書けるかどうかわからないので、
控えておくことにします。

・・・・・

でもやっぱり、真似をしないことは、何に影響していくのだろうか?

真似から物事を学ばないってことなのです。

じゃあ、どうなるのか。

極論から言うと、
正しく学べないってことです。
正しく教えたくても、教えられないってことです。

※個人差があるので、絶対こうだとは言い切れません。

・・・・・

放っておいたら、
まねっこ、ふり遊び、見立て遊び、ごっこ遊び、
そういう発達はしません。
というより、しづらいです。

じゃあ、仕方がない、とするのか。
なんとかしたい、と思うのか。

・・・・・

私はなんとかしたいと思いました。

最初は、ある手法を使って模倣(真似)する技術を習得させました。
そこには、結構な時間がかかりました。
でも、出来るようになってきたとき
「やった、これでいろいろなことが伝えていける」と思いました。

しかし、しばらくしてふと気付きました。
あれ?
彼には、真似をしたいという気持ちが育っていないんじゃないか。
じゃあ、これ以上の発展は無理じゃないか?
そう思いました。

・・・・・

そう、真似は技術ではありません。
真似をしたい気持ちが大切なんです。
最初は下手でもいいんです。

だから、
上手にできなくてもお母さんみたいに洋服を着てみたいと思うし、
おぼつかない足もとでも、お兄ちゃんの後を追いかけて走ろうとするし、
技術よりも気持ちでカバーして、そしてだんだん上手になっていく。
そして、社会的に必要なことをどんどん吸収していく。
(逆に、幼稚園で汚い言葉を覚えてきたり、
お母さんの変なクセを真似たりもしていきますよね、
それも成長です)

そうだ、真似をしたい気持ちが大切なんだ。
そう気付きました。

・・・・・

そして、真似をしたい気持ちを育て、
人と一緒にいたらいいことあるね、
っていう気持ちを育てることに何年も費やしました。

結果、息子は「ごっこ遊び」までは難しかったのですが、
「見立て遊び」が楽しいレベルにまでは育ってくれました。
 
そしてようやく、周囲に好きだなぁと思える人がでてきて、
その人と一緒にいたいなぁと思えるようになってきたようです。
 
私が一番大切にしているのは、結局はそこです。
技術ではなくて、気持ちを育てることが大事だと思っています。

気持ちが育ってしまえば、その上にスキルを積んでいくことはできます。

・・・・・

実は先日、軽度発達障害のお子さんをお持ちで、
支援学校の教師をしていた友人と話しました。

その時
「え、Sちゃん、小さいとき模倣しなかったの?」
とびっくりされました。
「うん。全くしなかったよ。ゼロだよ。」
と答えました。

「支援学校の高等部にいる生徒さんで、模倣しない生徒さんいたでしょ?」
「元々、自閉症の子どもが模倣ができないってのは、定説だよね?」
と私は説明しました。

友人は、自閉症の子どもの中で、
”元々模倣ができる子と
”元々模倣ができない子”
その2種類に区別していただけであって、

”元々できなかったけど、できるようになった子”
という分類があったことは、あまり考えていなかったらしい、
ということがわかったのです。
 
確かに、そういう過程を見ることは、あまりないかもしれないな、
想像しにくいんだな、
と思いました。
 
・・・・・

私は、
”模倣ができなくても、気持ちを育てればある程度模倣はできるようになる”
”模倣が下手でも、同様に気持ちを育てることで、より上手になる”
と考えています。

私の個別指導や、親御さんへのコンサルティングは、
この部分を育てることが一番の目的です。

時間はかかりますが、気持ちを育てることは一生モノだと考えています。

小手先のスキルよりも、一生モノ。

絶対に価値があると私は感じます。
 
・・・・・

下手でもいいんです。
お母さんがやってること、ボク(ワタシ)もやってみたいなって、
ついつい同じことしてしまいたくなる、
そしてお母さんをじっと見つめる、
キラキラした瞳が宝物なのです。

・・・・・

タカマミー
 


2015年9月22日火曜日

Xくんのお母さんの想い と 私の決意

療育コンサルティングの第一号クライアントさんである、
Xくんのお母様が今の心境を書いてくださいました。
飾らず、今の想いを書いてくださっていると思います。
原文まま、載せてみたいと思います。
 
・・・・・

私が今感じること。
息子の発達障害が確定して2ヶ月。
ショックと不安で毎日泣く日々。
それが、一日おきになり、3日に1度になり今は1週間に一度位涙が出るかな。
でもそれは悲しい涙の時もあるけれど嬉しい涙の時も出てきました。

私が今感じることは、タカマミー先生と出逢うまで、
我が子との関わり方がわからなかった。
その一言に尽きるのではないだろうか。

普通が全く通らない。
でも普通だと思って接しているから上手く行かない。
お喋りできないのは、今は言葉をため込んでる時期。
おもちゃで遊べないのも、興味の幅が狭いことも、そのうち出来るようになる。
ウロウロするのも、突っ走ることもいつか治まると思っていた。と言うか思うようにしていた。
でも、それを出来ないのが発達障害。
私自身の発想を切り替え、もっと発達障害について知らなければならない必要がある。

タカマミー先生に毎週来て頂いて、息子の遊び方を見て頂いてアドバイスを受ける。
1週間言われたアドバイスを守り毎日小さな遊びの課題をコツコツやる。
初めは課題の些細さに気が遠くなった。
でも、続けるとどんな課題も必ず反応するようになるし、出来るようになることも出てきた。

息子と一緒に遊び、息子が笑顔になる。
当たり前のことかもしれないけど、私にとっては今まで、それすら出来なかった。
だから、嬉しくて泣けてくる。
息子と人として通じ合える感覚・・・

色々な療育法があるけれど、人間力を強化していく療育法はあまりないのではないだろうか?
タカマミー先生の療育法はそこが他とは大きく違う点だと思う。

触ろうともしなかったクレヨンを持ち、点を描き、弱い筆圧でヒョロヒョロと線を描き、今はしっかりした筆圧でシャッシャッと画用紙の白色がわからなくなるくらい線を引けるようになってきた。
いつかは、一枚の絵を完成出来るようになればいいなと思う。
毎日毎日順調にと言う訳ではないけれど、やれば必ず前進する。やらなければ何も始まらない。

実は実際、まだ息子の障害を完全に受け入れられた訳ではない。
夜、眠れない日もある。
彼の現状を知ることは怖い。

でも、目を逸らしたりはしない。
彼と一緒に幸せになりたいから。

(Xくんのお母様の文章、原文そのまま)


・・・・・
 
Xくんのお母様は、
まだちゃんとXくんの障害を受け入れるには至っていない、
そんな雰囲気が見て取れます。
感情にも波があるのだとも感じます。
最初お会いしたとき、
Xくんはこれならできる、
これは分かっている、
穏やかな性格だ、
聞き分けが良い、
と思いたい、そんな気持ちがひしひしと伝わってきました。
我が子の障害を受け入れるのに、時間はかかります。
でも、正しく我が子の状態を知り、
できていること、できていないこと、
わかっていること、わかっていないこと、
を受け入れるところから、
療育はスタートします。
それがとても辛い行程だからこそ、
他人に任せるというのが一般的だったのかもしれません。

しかし、Xくんのお母様は自分で頑張ってみたいと、言われました。
強いお母さんのように思えるでしょうが、決してそうではありません。
実際、私も強くなんてありませんでしたから。
ただ、Xくんと幸せになりたいという気持ちが強いのです。
また、それが許される家庭環境だったのです。
ただ、その条件が重なって、たまたま私との出会いがあっただけなのです。
 
だから、私もそんなお母様の心情に寄り添いながら、
でも淡々とやるべきことをしっかりと、伝え、評価し、軌道修正してまた伝える。
 
私はお父様お母様に
「大丈夫ですよ。」「そのうちなんとかなりますよ。」とは言いません。
将来を聞かれても
「それは誰にもわかりません。」としか言えません。
ただ、親御さんが着実に行動することで、
「なんとかなる」に近づくことはできる、と伝えます。
そして、「一緒に長い道のりを頑張りましょう」、と言います。

冷たいようですが、気休めの言葉なんてかけられないのです。
それぐらい、発達障害(自閉症)とは生きていくのに大変さを伴う障害だからです。
また、家族にも大変なストレスとプレッシャーを与える障害でもあるのです。
放っておいて治るなら、なんとかなるなら、療育なんて要らないのです。
 
・・・・・
 
私も、未だに息子と居るとき、気が休まりません。
だからって、お留守番させておく知的能力もないし、
一人で外に出せるほどの判断力もないので、
誰にも見てもらえないときは、必然的に私が常に付き添います。
私は13年間、彼の側にずっといて、この先もずっと側にいる。
これからもずっとです。想像してみて下さい。

そして、祖父母に任せられるというレベルではなくなってきました。
私の指示と、それ以外の人の指示では、入り方も違うからです。
走れば、私でも追いつけません。
いろいろな意味で、高齢になってきた祖父母には預けられません。
しっかりとお任せできる学校や一部の福祉関係の方にしか、お任せできません。
それでも、外で何かしでかすかもしれない、
そんな不安に押しつぶされそうになりながら、
他人にお任せするのです。
 
そんな彼でも、就労に向けて、自立の練習をさせなければなりません。
そして、彼のこだわりや見通しのもちにくさと、いつもいつも戦っています。
 
・・・・・
 
もちろん、知的な能力の差や、発達障害の種類や、その子どものもつ気質により、
家族の負担はまちまちです。
でも、多かれ少なかれ、ストレスとプレッシャーと不安で押しつぶされそうになる、
そんな障害だと感じます。
 

それでも、「適切に関わられてきた幼児期・学童期を過ごした子ども」
「そうでない子ども」とでは、大きな差が出ると感じます。
 

・・・・・


小学校の普通学級に在籍する発達障害児。
我が子に比べれば、知的な問題はないし、一人で出掛けさせられる。
一見、親御さんの負担は軽いように見えますが、
実は「普通」の枠に入れられてしまう、また「普通」に入らざるを得ない、
彼らの大変さも、また我が子とは違う大変さです。
年齢が大きくなればなるほど、大変さが伴います。
障害者の枠にも入らない、でも普通の枠にも入り辛い。
そんなジレンマ。
 
彼らも生き辛いでしょう。
親御さんも、そんな彼らを見ているのが辛いでしょう。
普通に高校に行って、いずれ就職して・・・
それが本当に可能なのかしら、と不安で不安で押しつぶされそうだと思います。
 
・・・・・

そして、彼らになんとか救いの手を差し伸べられないか、
そうやって始めた小学校での特別支援教育としての個別授業。

考え方は間違っていなかった、と確信しました。
やるべきことのベースは結局は同じ。
ただ、活動の種類やレベルが違うだけなのだ。
そして、理解度や本人の好みに合わせて、
カスタマイズしてあげれば、
考え方は、一緒。

そんな確信のもと、
発達障害児に救いの手が差し伸べられるよう、
頑張っていこうと、また強く感じた。
 
・・・・・
 
タカマミー




2015年9月20日日曜日

紹介する

映画の予告編
番組の告知
イベントの告知
モバイル会員向け新商品案内
スーパーのチラシ

私達は、いろいろな情報を、様々な媒体で見聞きし、
「こんなものがあるのか、一度観てみたいな。」
「是非、この日朝一番で買いに行こう!」
など、どんどん脳内の情報を更新している。
 
・・・・・

また、友達が話題の本を読んだと聞けば、自分も読みたいと思い、
人が作ったレシピを見て、同じように作りたいと思い、
口コミの多いお店に是非行ってみたいと思う。

そうやって、人がやっていることや好きなことが気になり、
自分もやってみたいと思ったり、
興味を持ったり、
そうやって世界を拡げていっている。

・・・・・

最近、ある男児(Xくん)の親御さんとご縁があり、
親御さんへの療育コンサルティングを始めることとなった。
私のクライアントさん第一号だ。
毎週そのお宅を訪問し、
ご自宅の中でXくんがどんな行動をしているのか、
どんな玩具で遊んでいるのか、
どんな風に物事を要求しているのか、
どんな風にお外を歩いているのか、
どんな風に食事をしているのか、
いろいろ観察しながら、
アプローチ法を探りつつ、
お母様に、遊び方や物事の伝え方のアドバイスをしている。
 
まずは、Xくんと遊んでみないことには、
彼の行動や発達状況が把握できないと思い、
いろいろと遊んでみる中、

「お母さん、クレヨンと画用紙ないですか?」
と私が言った。
「あ、Xは興味がないので、ここにはないです。どこにあったかな?」
とお母さんが言った。

私も自分で持ってきていたので、それを出してみると
確かに何の興味も示さない。
見ないし、クレヨンを触ろうともしない。

・・・・・

2週間後、Xくんの前に画用紙とクレヨンを置いてみた。
Xくんは、画用紙とクレヨンを見ている。
私はクレヨンをXくんに渡した。
Xくんは、クレヨンを画用紙に「トントントン」と押しつけ、点ができた。
その後、右方向に手を動かし、薄い横線ができた。
他の色を渡したら、また点ができた。

そして、私が横線を描いてみせると、ちらっと見た。

・・・・・

まだ、何かが描けるわけではない。
私の描くモノをじっと見ていられるわけではない。
私の描くモノを真似しようという気持ちも、まだない。

でも、これは0から1に変わった2週間だったと思う。

・・・・・

我々は、見慣れているモノに安心する。
また見慣れているモノを好きだと思う傾向がある。

初めて見るモノや触るモノは、ちょっとドキドキするし、
触ったこともないのに、好きかどうかなんてわからない。

・・・・・

2週間前、Xくんのお母さんには
「毎日Xくんを膝にのせて、画用紙とクレヨンを使っている姿を見せてください。」
ただ、そうアドバイスした。

最初は、きっと全く見なかっただろう。
それでもいいから、毎日数十秒続けてくださいと私は言った。
(本当はもう少し詳しいテクニックがあって、それもお伝えした)
でも、それが何回も続くうち、
「あれ、昨日もこのセット、見たな」
「そういえば、お母さんよく手を動かしているな」
きっと、Xくんは心の中でそう思ったに違いない。

そして、ちょっとでも見るようになったとき、
Xくんと一緒にクレヨンを持って、点々をつけたり、
横線を描いてみたり、してもらうようにもアドバイスした。

ただ、単にそれだけだ。

・・・・・

発達障害の人は、人を参照するのが苦手だ。
そして、見慣れないモノに興味を抱くことが少ない。

そして、Xくんはまだ幼く、経験も少ない年齢。

普通なら、いろいろな殴り描きやぐるぐる描きができている年齢なのだが、
そもそも画用紙とクレヨンを知らなかったし、
画用紙とクレヨンを使っている人を見ても、
目に入っていなかったと言っていいだろう。

あえて、「紹介」してあげないと、
興味が広がっていき辛いタイプのお子さんなのだ。

でも、「紹介」して、0から1になったことは、とても大きいと私は思う。
これから先、お絵かきをしたり、文字を勉強したり、ということは、
きっと避けては通れない。
 
・・・・・

どんなことにも、最初の一歩はある。
発達障害や知的障害により、その一歩が出遅れたり、
また、その一歩にもならなかったり、
一歩でたと思ったら、足踏みしたままということだってある。

けれど、「紹介」してあげることで一歩、二歩と、
ゆっくりでも着実に歩んでくれる事柄がある。
それは彼らが自ら学んで前進しているということなのだ。
 
・・・・・

そんなお子さんの歩みを、
親御さん自身の手で促してもらうという大きな仕事。
その親御さんの仕事をコーディネートするのが私の役割。
どちらも、まだ歩み出したばかり。

みんな、最初の歩みを始めたばかりの、
三人四脚はこの秋スタートした。

映画の予告編みたいに、「これいいな!」を見つけ、
それが発達を促し、彼の土台作りとなるよう、
これからも「紹介」活動は続きます。
 
Xくんの今後に乞うご期待、です。
 
・・・・・

タカマミー


2015年9月17日木曜日

通知票

今日は、息子の学校の個人懇談。
通っている支援学校は2学期制なので、
入学してから今月まで、前期の評価を説明していただいた。
 
・・・・・

通常学級では、学年毎、教科毎に一定の基準があり、
それに到達しているかどうかで評価が決まる。

しかし、支援学級や支援学校では、全員発達がまちまちなので、
一人一人に「個別支援計画」や「包括支援プラン」が作られる。
それに基づき、一人一人の半期の目標が作られる。
 
・・・・・
 
それぞれの項目がどうだったか、
ということはまあいいとして、

私が嬉しかった息子の行動は、

「好きなお友達が複数できたこと」
 
「好きなお友達を押して楽しむのではなく、声をかける,笑顔で近づく,頭をなでる等のことで満足できるようになったこと」
 
「苦手な大声が聞こえても、好きな子の声ならニコニコして聞いていられること」
 
「苦手な大声が聞こえたら、その子を攻撃しにいくのではなく、先生に”キーキー嫌だな”と言いに行けることで納得できるようになってきたこと」

「先生に、報告や連絡ができること」
 
「与えられたことを、最後まで取り組むことができること」
 
と、こんなことでした。
 
・・・・・

入学したての頃、まだまだ落ち着かず、
誰を頼って良いかもわからず、
いろんな問題行動を起こしては頭を抱えていたな。
何度も先生と話し合ったな。
 
半年経ち、担任の先生とのしっかりした信頼関係ができ、
問題行動を、少なくともちょっとでも正しい方向へと修正できていること、
なにより、学校が大好きで、毎日楽しみにして登校できること。

小さい頃から、「こうなってくれればいいな」と思い、
何年もかけて一緒に積み上げ練習してきたことが、
中学生になって、ちょっとずつ花開いてきているように感じた。
とってもとっても嬉しかった。
 
・・・・・

そして、後期は、縦割り授業のクラスにおいては、
今より少しレベルの高いことを求めてみようと、2つのクラス替えもするそうだ。
そして、担任の先生だけでなく、他の先生とも関係を築いたり、
先輩のやっていることを見て付いていったり、
お友達と協力して物事をやり遂げることを学んで欲しい。
彼に必要なのは、そういう対人スキル。
国語力は、今の彼のレベルに見合うものを既につけているので、
その時間を削って、人と関わることの時間を増やした。
そういう狙いをお伺いできた。

そして、家と学校のクラスでは、手持ちぶさたな時にやれそうなことを
積極的に見つけていき、情報交換していきましょうということも話し合った。
 
・・・・・

通知票の評価は全部「達成」。
普通の中学生なら、オール5か!?
MBOなら、評価+か!?
そんなに厳しい評価結果ではないのだが、
つまり「次のステップに移っても良し」ということだ。

いっぱい大変なこともあるし、難しい問題もある。
これからも、いろいろ乗り越えなければならないだろう。
でも、息子は学校で楽しく過ごし、
そしていろんな役割を持ち、
それぞれにとても頑張っていて、
その頑張りを先生方から認めて貰っていることが、
お母さん誇らしかったよ。

素敵なご褒美をありがとう。
 
・・・・・

そしてお母さんは、Sちゃんだけでなく、
他の困っている子ども達にも、
あなたのようにしっかり着実に前進し、
周りから認められる子どもになっていってもらえるように、
地道に活動をしていくよ。

これからも、毎日を大切に生きていこう。
 
・・・・・

タカマミー

2015年9月14日月曜日

信頼

人として信頼してもらうこと。
そんな方法論はあるんだろうか。

深く知らなくても、
「この人は信用してもいいな。」
「この人には、まだ気を許せないな。」
そういう感情を抱くことは誰にでもある。
 
・・・・・

言うことに一貫性があるとか、
ウソをつかないとか、
口が固いとか。
 
忘れ物や遅刻がないとか、
お金にしっかりしているとか、
お礼や謝罪をタイミング良くできるとか。

人の話をしっかりと傾聴してくれるとか、
対話が成り立つとか、
共感してくれるとか。

そういうことが大きいのだろうか。
 
・・・・・

そして周りから見て私という人は、
痛みを知っているという大きな要素もあるようだ。

痛みを知って、そしてそれに立ち向かっている、
という理由で、私に悩みを打ち明けてくれる人も居る。

・・・・・
 
私はSNSにネガティブなことは書かないと決めている。
どちらかというと、おちゃらけたことを書きたいと決めている。
そうやって、その場所で、人との対話を楽しみたいからだ。
 
だから、私はいつもいつも息子と楽しく過ごしているわけでもないし、
悩みがないわけでもないし、
はつらつとして健康な訳でもない。

どちらかというと燃費が悪いたちなので、
いろんなことを片付けるときは速いが、
一定時間の横になる時間や、
息抜きする時間が人より多く必要だ。

・・・・・

今日は何かといろんなことが重なった上に、
私の中での一番の大きな問題、義母問題が重なった。

彼女が絡む問題は、とても厄介で、
そして、とてもやる気を削がれる。
そして、むなしくなる。

息子のことでも同じような感情が起こることもあるが、
やはり可愛い我が子であり、
私を必要としてくれる我が子であり、
なんとかせねばと、戦う気力を取り戻せる。
 
・・・・・

でもそんな時、
夫と連絡をすれば、
「つまらぬ母で、ごめんな」と一言、
書いてくれる。
私はその一言で、よしまた立ち向かおう、頑張ろうと思える。

ちょっと相談していい?と義妹にメールを送れば、
すぐに電話をかけてきてくれる。
そして、しっかり話を聞き、
一緒に問題を解決する方法を考え、
そして、私に感謝してくれる。
ああ、こうやって3人で協力できてなんて幸せなんだろうと思う。
「聞いてくれてありがとう」
「一緒に頑張ろう」
そうやって言える同志がいるのは、心強い。
 
・・・・・
 
私はすごーくたくさんの人と知り合いになりたい訳ではない。
どちらかというと、ちょっと苦手である。

でも、信頼し合える人が一人、また一人増える度に
幸せな気持ちになる。

そういう「ありがとう」「幸せ」と思えることが、
相手にも伝わるのかもしれない。
それが信頼関係を強くしていくのかな。

・・・・・
 
5つぐらいのことを同時進行でこなし、
とっても疲れた今日だったが、
こうやって書きたい気持ちになった。
やっととれた食事も美味しい。
ついでに、ビールも旨い!

あー幸せ。

・・・・・

タカマミー



2015年9月10日木曜日

新しい私の役割

2年ほど前までは、
「その辺にはあまりいない、珍しいタイプの療育お母さん」
として、私のことを知る人は知ってくださっていた。
 
ここ半年くらい前から、
もうちょっと突っ込んだ話をして下さる方が増えた。
「いつかあなたと一緒に仕事がしたい」
「こういう事業のお手伝いをしていただけませんか」
「私はこういうことをしたいと思っている、いつかコラボしたいです」
そんなお話をいただくようになった。
・・・・・
 
それもこれも、お会いしてお話する方がたいてい
「高見さん、何をされている方なんですか?」
と聞いて下さるからである。
 
2年前までは、
「ただただ、息子のセラピストとして毎日を過ごしています。」

1年前には、
「息子のセラピストとして過ごしながら、
社会人向けの研修添削講師を在宅でしています。」
 
半年前には、
「在宅で社会人向けの仕事をしているんですが、
いつか発達障害児に関連する仕事をしたいと模索中です。」
 
そうやって、私の答えが変化してきたからなのだろう。
どちらにしても、相手の方は、「私が何者なのか」を知ろうとして下さる。
そういう何かが、私にはあるようだ。
 
・・・・・

息子のセラピストであることは、いまも変わりがない。
でも、息子との関わり方や関わる時間帯が明らかに変わってきたのは事実。
息子のことを考えないことはないが、
日常生活そのものが、2人にとって学びの場であり関わりの場と変化したのだろう。
息子の居ない時間帯に、あれこれ遊びを考えたり、準備したり、
学習課題の用意をしておいたり、
先にご飯を作っておいたり、
そんなことをしなくても、彼と二人で学んでいけるようになってきた。
 
・・・・・
 
そしてこの秋、
社会人向けの仕事にも新たな役割が舞い込みました。
 
小学校で、特別支援教育に携わるご縁をいただきました。
 
療育コンサルタントとして、私を求めて下さるご家庭に出会いました。
 
この先、どの割合を大きくしていくのか、
仕事としてふくらませていくのか、
まだ何も決めていません。
まだ収入というほどにもなっておらず、
私の方がまだまだ修行中という感じです。

しかし、私個人的には、
長く温めてきた療育コンサルタントの役割を大切にしたい。
なぜなら、私が育て支援したいのは、
「難しい子供を育てる親御さん」だから。
 
・・・・・

私を通じて、親御さんの考え方や軸がしっかりと定まり、
それがそのお子さんへと伝わっていき、
親御さんとお子さんで、
楽しいことも苦しいことも共有し、共感しながら
一歩一歩進んでいって欲しい。

そして、いつか
「もう自分たちの力でやっていけます、ありがとうございました。」
「そうですね、もう大丈夫ですね。」
と、そんなところまでお付き合いできたら、
どんなにいいだろうかと思う。
 
軸になるのは親御さんであってもらいたいと思うから。
専門家や有資格者を、親御さんが自分で選択し利用し、
教育の現場と対等に話ができれば、
自立した親御さんと言えると思う。
やがて、我が子の将来を考えていく時にも、
そのような親御さんであれば、きっと乗り越えていけると思う。
 
多くの人を救うことはできないかもしれないが、
そういう考え方のできる人を一人でも増やしたいと願う。
そして、お子さんが、ご家族が、
生きていて良かったと思えることを願う。
 
・・・・・

わからないことは聞いたらいい。尋ねたらいい。
でも、「自分が何がわからないか」を聞いても答えは返ってこない。
 
私は絶対的な100%の答えを持っているわけではない。
でも、問題を整理することや、
どんな風に判断していったらいいかを考えることができる。
試してみて、それに評価をすることができる。
 
お子さんに対し、私が何かする度に、
「なるほど~」「今までと違いますね」「私も今日からやってみます」
そう言ってくださること。
それを素直に実行してくださること。
そして、それをしたことで子供に少しの変化が見えること。
 
親御さんが我が子の状態をしっかりと受け入れ、
目をそらさないで取り組んでいくという姿勢は
実はすぐには整わない。
多少時間のかかることなのだ。
 
それでも、そうやって苦しんでもがいてでも、
毎日何かに取り組もうとすること。
それが、行動することである。
そしてそれが療育することであり、子育てでもあるのだ。
 
じっと黙っていても何も始まらないし、誰も始めてくれない。
何か行動してみることが大切。
 
・・・・・

そんな我が子以外の、発達障害児との関わりの中での気付きも、
今後は綴っていきたいと思っています。
もちろん我が子同様、匿名です。

どうぞよろしくお願い致します。

・・・・・

タカマミー

2015年9月6日日曜日

シェアするっていいね。

息子は好きなものがあれば独り占めしようとする。

それは誰しも幼い頃、通過する成長過程でもあるのだが、
いつしか人に分けてあげる喜びを覚え、
人と一緒に分かち合う楽しみを噛み締めるようになる。
一人で食べるより、みんなでお喋りしながら食べると、楽しいね!
その成長過程をなかなか超えられない、
そして人と分かち合うことの意味がなかなか分かりづらい、
そんな難しさを持った息子にとって、
結構ハードルの高い問題でもある。

いろいろなテクニックを使って伝えようとしても
彼らには心底理解することが難しい。
超えようと思えば、人を好きになることしかない、
まずはお母さんを好きになることがスタートだ。

そんな教えを、私は長年実践してきた。

そして、お母さんである私のことを
息子は好きになってくれ、信頼してくれているとは思うが、
いざ大好きなものが前に出てきてしまうと、
「大好きなもの」が優先されて訳がわからなくなるというのが定番だった。
そう、必死になると、そんなことどうでもよくなってしまうのだ。
 
・・・・・
 
息子はカプリチョーザが好きだ。
ちなみに、私も夫も、あのいつも変わらぬ濃いお味、
結構好きである。

最近では、午前中の暇な時間は、
早めの昼食で、カプリチョーザに行きたいなぁ
と思っているようだ。

短時間で息子の要求を満たせるもの、
それは数少ないこともあり、
それはそれでいいんじゃないか、
と思うようになった。

月に一度くらいはカプリチョーザランチに行くだろうか。

・・・・・
息子は、カプリチョーザでは、
頼むメニューが決まっている。

シーザーサラダ
トマトニンニクパスタ
カルボナーラ

この三種類である。

この三つをシェアして食べようとするのだが、
シェアできるのはシーザーサラダが限界。
メインのパスタが出てくると、
もう独り占めしたくてたまらない。

私と息子の2人で行っても、
夫と息子の2人で行っても、
大人は思うように食べさせて貰えない。

「いややわ~
一緒に食べるんやから~
お母さんも食べるって~」

そう言って、食べるには食べるが、
息子は機嫌が悪いし、
なんかいい気分ではないし、
しかもお金払うのは大人だし。

・・・・・

前回私と2人で行ったとき、
私は考えた。
パスタを一種類にして、二皿頼んでみよう、と。

「シーザーサラダがいい。」
「トマトニンニクパスタがいい。」
と息子は言った。
「じゃあ、お母さんもトマトニンニク!」
と私が言った。

「・・・Sちゃん、カルボナーラがいい。」
と息子が言った。

「じゃあ、お母さんもカルボナーラ!」
と私が言った。

息子はしばらく考えた。

「Sちゃん、カルボナーラ」
「お母さん、トマトニンニク」
と息子は言った。

「あー、ナルホド。
じゃあ、2つ違うのがくるもんねえ。」
と私が言った。

・・・・・

結果的に、いつもどおりシェアすることになったんだけど、
Sちゃんがとりわけて・・・
お母さんがとりわけて・・・
Sちゃんがとりわけて・・・
お母さんがとりわけて・・・

揉めませんでした。
だって、2人で頼んだんだもの。
2人で食べるんだもの。

・・・・・

このメニューの頼み方をしたから、
急に息子がシェアできた訳ではないけれど、
一緒に食べるってこういうことなのかも、
と息子なりに理解したのかもしれない。

・・・・・

美味しいもの、
一緒に座って、
とりわけて食べるって、
パーティーみたいで
楽しいね。

ね、Sちゃん。

・・・・・

タカマミー

2015年7月24日金曜日

プラス思考でいこう

現状にすべて満足できている。
仕事も、家庭も、友人関係も。
自分の容姿も、才能も、学歴も。
持ち物も、住居も、車だって理想通り。

中にはそんな人もいるかもしれないけど、
私は違う。
 
・・・・・

自分自身のことを言うと、コンプレックスだらけだ。

中学生くらいまでは、多少できる子だったのだが、
深く長く勉強をし続ける根性と体力が欠落していた。
自分の体力や、その後の人生のことも考えて、
なんとなく最終学歴を小さくまとめてしまった。

容姿だって、コンプレックスがたくさん。
自分の欠点をどうカバーしたらいいか、考えたり工夫したり、投げやりになったりする。

家族だって、予期しない問題だらけの子供を授かったり、
両家の父母のことでイライラしたり、気を揉んだり、労力を使ったり、そんなことだらけ。

人付き合いだって、本当はちょっと苦手。
友達を作るのもちょっと苦手。
異性とのお付き合いは、非常に苦手分野だったのだ。

そして、ちょっと完璧主義なところがあって、
それを人にも強要してしまうような、窮屈な性格だった。

冗談を言われて上手に切り返すなんて、全くできなかった。

ごめんなさいって謝ることが下手だった。
 
・・・・・

悩み多き私が、何をきっかけに変わったのか。
息子である。
そして夫である。

息子の障害がわかったのは、彼が3才になったときだった。
障害児の親は、我が子の障害が判ったとき、
たいてい「深い闇の中にいるようなどん底の気持ち」を経験しているだろうと思う。
一生立ち直ることができないし、笑うことができないだろうと、その時は思っただろう。

でも、現実は待ってくれない。
子供に手はかかるし、着替えないといけないし、食べないといけない。
誰かが仕事をしなければ、お金だって稼げない。

そうして、何ヶ月か、何年かかかって、いつしか笑うことができるようになる。
そして、だんだん穏やかな気持ちや前向きな気持ちを取り戻すようになる。

それは、
「現状を嘆き、諦め、絶望する」
↓ ↓ ↓
「現状を受け入れ、今よりも良い状態でありたいと願い、行動する」
という思考へ切り替わったからではないかと思う。

思考が切り替わってしまうと、前向きになれると思うのです。

・・・・・

息子のことで言うと、

「会話ができない」
↓ ↓ ↓
「最低限の要求を伝えることができるようになった」

「癇癪を起こしてしまう」
↓ ↓ ↓
「癇癪は起こすが、嫌なことは”いや”と伝えられるようになった」

「いつも外に居たくて、勝手に外に出てしまう」
↓ ↓ ↓
「外に出たくなることは多いが、”お外行こう”と伝えることができる」

こんな風に、息子自身の特性や感情の起伏など、
急には変えられない面も多いけれど、
少しずつ生活がしやすくなり、対応がしやすくなっていく。
この変化、私には「幸せ」なのです。

だから、積極的に息子に介入することで、
彼を、”今よりも少しできる子供” にしていこうと決めました。

完璧を目指すというのは現実的ではありません。
T大に入り、年収が3000万で、美貌を持ち、家族も裕福で優しい人ばかり。
そんなレベルの人が、日本に何人いるでしょうか?

ただ、普通に幼稚園に通って、小学校に行って、ということすら叶わない息子にとって、
会話ができることを求めるのは、それぐらい突拍子もないことなのです。
 
その子なりの、成長を願い、促し、認めてあげること。
その小さなサイクルが完成することって素晴らしい成果なのです。
すごく満足感の得られる結果なのです。

・・・・・

また、息子に関わって下さる周囲の方達への期待もしかりです。

「先生が、子供に学習面を教えてくれない」
↓ ↓ ↓
「先生は、自立できていない朝のカバンの用意を定着させようと努力してくれている」

「先生が、宿題を出してくれない」
↓ ↓ ↓
「子供の状態や様子を見ながら、自分のさじ加減で自宅学習をさせてやることができる」

「先生が、子供が最大限を発揮できるようにフォローができない」
↓ ↓ ↓
「少なくとも、子供が楽しく活動できることを見つけて認めてくれる」

こんな風に捉えてみてはいかがでしょうか?
私の思考回路は現在、こんな感じなのです。
基本的に、周りに期待しすぎないで、母である私を軸において考えています。
悪く言えば、ジコチューです。
 
・・・・・

実は、一生懸命な親御さんの悩みが不満となって、
周りの療育者や教育者に向けられてしまうことがあります。

例えば、学校の先生、療育で携わるOTさん、STさん、心理の先生、放課後ディのスタッフなどなど。
「~してくれない」「~がわかっていない」と感じてしまうようです。
親として、学校に行っている間に最大限活かして何かを得てきて欲しいと願うことは無理もないのでしょう。
訓練で何かを得て帰ってきて欲しいと強く願いますし、これだけ労力もお金もかけているのにと思いたくもなるのでしょう。
そして、「先生」と呼ばれる人が、万能選手であるはずだと、つい思ってしまうのです。
いろんな役割を網羅して、子供のことを全部知って、考えて、アドバイスをくれる人が何故いないの、って思っている人もいます。

そうです。完璧に教えてくれれば、完璧な環境であれば、理想的です。

でも、現実はすぐ結果なんて出ないし、理想的な環境は残念ながらありません。

それが、どんな障害であっても同じだと思うのです。

だから、現状では、親が情報収集をし、コーディネーターになるしか方法がないのではないでしょうか。
必要なものを取り入れ、不必要だと思ったら取り除き、形を整えていくしかないと思うのです。

そして、子供の周りで関わってくださる先生方のような”支援者”の皆さんを、
気持ちよく、熱心に、最大限努力してもらえるように、
自分が働きかける人となればいいのではないでしょうか。

”支援者”の皆さんのプライドを傷つけないように、
時々プライドをくすぐりながら、
より良い協力者や指導者になっていっていただくこと。
ものすごく大変な仕事です。
 
・・・・・

このように思考を変化させていくと、相手への「ダメ出し」が減ります。
ダメだな、と思うこともいっぱいあるし、
もうちょっとこうしてくれたら、なんて思うんです。
でも、あれもこれもじゃなくて、時期を見てたった一つだけ伝えてみる。

「私、息子に昨日夕食前に○をやるように言ったら、
モチベーションがあってしっかりやれたんです。
先生、良かったら給食の前に、
嫌いな課題を頑張ってみようって、
誘っていただくことできませんか?」

こういうお願いの仕方はいかがでしょうか?
 
先生もプライドを傷つけられていないですよね。
お母さんも実際できたって言ってるし、
やってみる価値があるかもしれないぞ、と
次の日試してくださるかもしれません。

そしてもし、
「お母さん、やってみたんですよ。昨日より少し長く頑張れました」
なんて報告を下さったら、
手放しで先生にありがとうと言いましょう。
先生がすぐに行動してくださったことに感謝しましょう。
先生と親が協力していく関係は、そこから始まるような気がします。

・・・・・
 
夫は、私にダメ出しをしません。

私を楽しい気分にさせようと、生活の中にふんだんに笑いを盛り込んできます。

私の失敗を笑って済ませます。

私の得意なことを、しっかりと褒めます。

私のやることを、信じて応援してくれます。

人に対して、とても丁寧です。

それが、どんな年齢の人にも、どんな性別の人にでもです。

そして、人一倍努力家ですし、諦めません。

どちらかといえば楽天家です。
 
それが彼の良さです。

もちろん、ここには書きませんが良くないところもありますよ(笑)

息子の難しさが、私を勉強熱心に、忍耐強くし、
夫のふるまいが、私の考え方を徐々に穏やかにしていってくれました。
 
まさにプラス思考になってきている、と思います。

・・・・・

マイナスの言葉を相手に発すると、
相手がネガティブな気持ちになるだけでなく、
その言葉を発した自分もネガティブ方向に引っ張られます。

愚痴をこぼすくらいはどんどんしたらいいのです。
それですっきりするのなら。

愚痴をそのまま批判に変えて、相手に伝えてしまうのではなく、
相手がプラスに受け取れるように、表現を変化させる。

これは、テクニックです。

私が担当している通信講座のテキストにも、そう書いてありますので、
私の考えでもあるかのように、受講生にもアドバイスとして書いています(笑)

でも、本当にそうだなと思うのです。
言葉には魂がある。
 
・・・・・

自分が変わってから、人にも変わることを求めていこう。
自分が何か行動してから、人にも行動してもらうことを求めていこう。

そして、プラス思考でいこう。

・・・・・

タカマミー





2015年7月15日水曜日

空気を読む

空気を読む。
KYなんて言葉が造られたくらいに、
空気を読めないことは、あまり良くないこととして扱われる世の中です。

そもそも「空気を読む」ってどういうことなのでしょうか?
 
・・・・・

私の息子は、典型的な自閉症、特に社会性の重さが顕著でした。
社会性の重さが顕著な子は、
「クレーン現象」という行動をとることがあります。

例えば、子供が食べようとしているお菓子の袋が開けられないとします。
子供は側にいるお母さんの腕を掴み、
お母さんの腕をお菓子の袋のところに持っていこうとします。
お母さんに「お菓子の袋を開けろ」という要求です。

まさにお母さんの腕をクレーンのように扱って、
自分の要求をかなえようとする行動です。

健常児の、まだ言葉をしっかり操れない幼児期に見られることもあるようです。
しかし、大きく違うのは、

(A)お母さんの顔(目)を見ながら腕を持っていこうとするのか
(B)お母さんの顔(目)を見ないで腕を持っていこうとするのか

ということだと思います。

健常児は、要求をかなえようとするとき、
お母さんの手が要求をかなえてくれることを知っているので、
思わず腕を持ってしまいますが、
その時(A)のように、
お母さんにアイコンタクトをして「目で」要求を訴えることができます。

しかし、社会性の重い発達障害の子供は、
要求をかなえてくれるのは誰か第三者の「手」であって、
その先に意思の伝わる顔や目があるということに気付いていません(B)。
つまり、第三者の手であれば、誰の手でもよいのです。
手さえ持っていけば、自分の要求がかなうと思っているのです。
 
・・・・・

息子は当然、(B)のようなクレーンでしか要求を伝えることができませんでした。
要求があるときでさえクレーンですから、
それ以外の場面で私の顔や目を見ることは皆無です。

これはとても大きい問題として、私にのしかかりました。
つまり、物を見ることはできるけれども、
人を見る(気にする)行動が皆無だということなのです。
このことが及ぼす影響は、
社会生活全般にわたり問題行動としてあらわれます。

・・・・・

息子は今でもまだ、アイコンタクトや人を見ることは不得意ではあります。
しかし毎日毎日、私と一緒に練習をしたので、少しずつ上手になりました。
 
自分の要求をかなえて欲しい時は、
相手の目を見て「~していい?」と聞くことができるようになりました。

すごく楽しそうなことをしている人を見たら、真似をすることもあります。

自分が見ているYouTubeの動画で好きな場面が出てきたら
「お母さん、落ちたー!」と一緒に見て共感して欲しいことを伝えてきます。
 
「足、しびれた~」と私がいえば、
「お母さん、足しびれた~?」と足をツンツンして共感してくれるようになりました。

自分が何か悪いことをしてしまい、私が怒った表情をしていると、
その表情がおさまるまで”シュン”としています。
「お母さん、怒ってる?」と聞いてきます。
 
・・・・・

自分のコンディション(体調・精神面)が悪かったり、
非常に気になりすぎることがあったり、
見通しがつかなかったりして混乱している時など、
周りをみるどころではない時は無理ですが、
落ち着いているときであれば、
彼なりの「空気を読む」行動をするようになりました。
 
・・・・・

「アイコンタクト」ができるようになること。
そして、相手の表情や動きを見ることができるようになること。

これが、「空気を読む」ということに、密接に関係していくと思います。

これらが元々備わっていない発達障害の子供には、
とてつもなく大変な仕事ではあるのですが、
多少なりとも育てていくことが可能だと、息子を育ててみて感じます。

これは、一方的に話してしまうようなタイプの子供でも、
同じように育てることができます。
人の表情や動作を見て、自分の行動をどうすべきか
判断することに繋がっていくからです。

完璧を目指すことは無理でも、
ちょっとでも育っていけば、
彼らの、また親の世界は広がるはずです。
 
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どれだけ世話をしても、
どれだけ愛情をかけても、
見返りがない子育て。

息子のような社会性の重い子を育てていると、
そんなフレーズが時折頭をよぎります。
しかし、彼が私の目を見て何かを訴えてくれる、
それだけで十分な見返りだと感じるのです。
親として、ただただ、嬉しいのです。
 
永遠の片思いは、続かない。
親だって、子供から求められたいのです。
愛を感じたいのです。

・・・・・
 
見返りのない子育てを続けることは、
そもそも無理があります。
肉体的にも、精神的にもぼろぼろになる子育てです。
どこかで糸が切れてしまいます。
 
・・・・・
 
ツンデレな息子ではありますが、
今では私は息子からの愛を(少しは)感じることができますし、
やっと両思いになれたと思います。
だから、幸せに思えるのです。
 
・・・・・

タカマミー